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信長たちが桶狭間山にとりついたとき、急に冷たい風が吹いた。
なんだ、と皆が一様に空を見上げると付近いったいが急激に黒い雲に覆われ始め、太陽が光を失った、と思うまもなく、バラバラと氷混じりの雨が背中に吹き付けてきて、顔も上げられないほどであった。あたり一面が雨で見えない。
「天佑か」
立ちすくむ2000の軍勢の先頭で信長ひとりが喜んだ。雨で鉄砲は使えなくなるが、致し方ない。
行軍の音を全てこの雨が消し去るだろう。
すでに足元はぬかるみ、水が小川のように流れ落ちていく。が、信長は大きく槍を振った。
「全軍、進めぇ」
後ろのほうまで声は届かない。
草鞋でぬかるんだ道をのぼるのである。一人が滑り落ちれば、後ろにいた足軽たちも滑り落ちた。
隊長たちが「気をつけよ、石のうえや木の根伝いにいけ」と声を嗄らす。
雑兵や足軽たちも銘々が草の上、石の上、木々の張り出した根を踏むように登っていった。自然、隊列は大きく広がった。丘の起伏ある斜面と雨が信長たちの一行を隠した。
一方、この雹と雨を顔からまともに受ける位置にいた義元は、
「大変な雨じゃの。皆それぞれ木陰や物陰などに身をよせよ」
と至極当然の下知をした。
「サル、サルはいるか」
信長は藤吉郎を呼んだ。
「御前(おんまえ)に」
いちいち大げさな言葉遣いで藤吉郎がしかつめらしい顔をみせた。
「わかっているな」
信長は藤吉郎にそれだけ聞いた。
「はは」
今まで信長の雑兵として仕えてきた藤吉郎だが、今回初めて任務を与えられている。
「甚介をつけてやる。行け」
それまで信長の側近くにいた生駒親正が手勢20名と先ほどの梁田勢30名を引き連れて藤吉郎のところへ行った。
「木下殿、よろしうお頼みもうす」
さわやかに笑った。すでに嫁を迎え、子もできている甚介ではあったが、城中の女たちでこがれているものも多い。その笑顔が藤吉郎に向かった。藤吉郎までが照れた。
「は。こちらこそよろしうに。で、では手はずは」
藤吉郎と甚介は簡単に打ち合わせた。
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