第1章

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「聞いたか、ついに中納言池田殿の屋敷に押し入って、ご息女を攫ったそうな」 「恐ろしや恐ろしや……検非違使は何をしておる」 「小賢しい事に検非違使のいる所には近づかぬ」 「かといって毎夜警備に立たせる訳にも行かぬのう」 黒紫の束帯に身を包んだ貴族達が、朝集堂のあちらこちらで固まってのひそひそ話。 「それがの、かの首魁に金を出せば見逃してもらえるとの噂」 笏で口元を隠した貴族の一人が声を落とす。 何?と周りのものが一斉に顔を寄せた。 「それはまことでござるのか?」 「いや……噂よ。ただの噂」 そう言いながらもどこか得意げなその顔に、貴族達が目を見交わす。 「そう、噂でも耳には入れておきたいものだ……して、どのように?」 こそこそと囁きを交わす公卿達を朱塗りの柱の影から見ているものがいた。右近衛府中将、源博雅。 端正なその顔に苦々しい表情がよぎる。 気色ばんで公卿達に近づこうと したその肩を、後ろから掴まれた。 はっと振り向けば、立っているのは安倍晴明。縹(はなだ)の束帯の袖がふわりと揺れる。 「放っておけ。お主が怒るほどのことではない」 さらりと言われて博雅が憮然とした顔になる。 「だが盗賊と取り引きなどと……」 苦々しく視線を逸らす博雅の肩を、晴明がそっと引き寄せた。 「それも世の常」 耳元に囁きを落とされて博雅がきっと見返す。 「人が皆、自分と同じとは思わぬ事だ」 ぽんと軽く肩を叩いて晴明が歩き出した。その後を博雅が慌てて追う。 頃は初秋。淡い青に空は高く晴れ上がり、回廊を抜けていく風はどこかもう冷たい。 内裏の中庭に植えられた木々は紅や金に色づいて、澄んだ空気を華やかに彩っていた。 「酒呑童子は鬼だという都人のもっぱらの噂だ」 そう言う博雅に晴明が軽く笑った。 「ばかな。あれはただの夜盗よ。人以外の何者でもないさ」 「分かるのか」 廊下を並んで歩きながら博雅が問う。 「鬼であれば分かる。分からんから人であろう」 判じ物のような物言いに、煙に巻かれた博雅が瞬きする。 「何とかならんのか……お主の術で」 「なぜ俺がなんとかせねばならんのだ」 それでも食い下がってくる博雅に、晴明が前を見たまま、けんもほろろに言う。 「力のある者が無いものを助けるのは、当然の事ではないのか」 笏で口元を隠した晴明が横目で博雅を見やる。
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