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それから。
ただ、一振り。
ぶわっ、と小さな扇を横に払っただけ。
ただ、それだけ。
それだけで、ついさっきまで居た切り離された世界と目の前の俺を喰おうとしていた妖怪は消えている。
そして、手を伸ばせばすぐ届く位置で薄いヴェールのような神社に張られた結界がゆらゆらと揺れている。
「あー、疲れたぁー……」
鵺に掴まっていた手を離し、大きく息を吐きぐったりと肩を落とした俺の頭を、鵺はペシンと扇でこづいた。
「疲れたーじゃないですよ、坊ちゃん!」
ガサリ、とぶら下げた買い物袋を持ちながら、鵺は仁王立ちで怒っている。
「私たちがいるから良いものの、どうするつもりだったのです? あなたはまだ1人では祓えないでしょう!」
俺に言い募る鵺の目元は、もとより朱色をさした目元なのだが、怒りのせいで朱色がいつもより鮮やかに染まっている。
そして、風が吹いていないにも関わらず、鵺の金色の長い髪が、ふわり、と宙を舞っている。
薄紫の着物をキッチリと着こなしている姿はまるで、どこかの茶道家のようだ。
その上、金色と茶色のグラデーションがかったの長い髪と目元の朱色、透けるように白い肌と、すらりとした身長。
何だかムカつくぐらいの人目を惹く容姿を持つ目の前に立つコイツ、鵺は、人では無い。
ガサガサと手に持った大きなビニール袋の中を手探りで探す姿は、そこらの人間より人間らしく見えるが、鵺はれっきとした妖怪だ。
鵺自体は、伝説上の妖怪といわれ、頭は猿、手足は虎、体は狸、尾は蛇、声は虎鶫に似ている、と言われている。
けれど、俺の知っている鵺は、「まったく! 坊ちゃんは! だからいつもちゃんと鍛錬しなさいと言っているでしょう!」などと、商店街とスーパーで買ってきたであろう夕飯の材料が入ったビニール袋を漁りながら、ブツブツと文句を言う目の前のコイツなのだ。
「何処らへんが、伝説なんだか」
「何か言いましたか?」
「いや、別に」
ボソ、と呟いた言葉すら聞き漏らさずに、バッとこちらを鵺の視線が突き刺さり、首を左右に振りながら答えれば、「まったくもう……っ」と鵺はまたスーパーの袋へと視線を戻す。
【その鳴き声は聞くものの心を蝕み、そのものの魂を取り殺し、喰らうともされる】
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