2話 文筆家がやって来た

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ある日、洒落た着物姿の男性が革の鞄を片手に旅館の呼び鈴を鳴らしました 「どなたか、おいでですか!」 太くしっかりと通る声からは、彼のお人柄や自信を窺い知ることが出来ます 「ようこそ、おいでくださいました」 女将と少し話をしながら、さらさらと帳簿に筆をしたためておられます なんでも彼は、文筆家らしく本を一冊書き上げるまでのご滞在とのことですが 洒落た身なりに相反して髪は残薔薇で、なんとも粗雑に見えるのでございます 「お疲れになられたことでしょう」 文筆家が上がり框(かまち)に腰を下ろしますと そそくさと女中がくみ上げた足湯の入った桶で旅人の足を洗い、手ぬぐいで包む様に拭き上げました 眼光は鋭く、真一文字に閉じた口は なにも語りたがらないという風にお見受けいたします ただ、その風貌に似合わず 暇があれば可愛らしい星の形をしたカラフルな金平糖をぽーんと口に放り込んでいるのです 「こちらへどうぞ」 その文筆家が、とある晴れた日の朝にビードロの金魚鉢に近づいて参られました 「君は不憫だね、こんな小さな金魚鉢の中で、 知らない世界を知りたいと思う暇もなく、 ただただ、可憐で美しいと愛でられて一生を終えるのだろう」 そう言って、一粒の黄色の金平糖を ぽーんとビードロの金魚鉢に落としました それはまるで、淡く瞬く流れ星のように水中を優しく色づかせ 水草を掠めて小石と小石の間で揺れたかと思うと、動かなくなりました もう一つのお部屋には書生さんが住み込みで、旅館の手伝いのあれこれをしながら、志高く勉学に勤しんでおられます 「すっかり日も暮れたな」 遣いから帰るなり井戸で手を洗って口を漱ぎ、手ぬぐいを濡らし絞って顔を拭きながら とば口に腰を掛けて足濯(あしすす)ぎを終えると 濡れた手ぬぐいで裾の埃を払って足を拭き みしみしと廊下をきしませながらおかみさんの元へと歩いておられます 「女将さん、只今戻りました、お寺の和尚様からのお礼状でございます」 「お帰りなさいまし、お疲れ様でした」 そう言って、一服のお茶と練り菓子を書生さんに勧めました
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