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そう答えて、触れるだけのキスをした。
微笑んだ口元同士が、そっと相手の温度を確かめて離れる。
大好き、さよなら。
そんなキス。
「いいパパになってくださいね」
「任せて」
にこっと笑って片手を振ると、河村さんは出ていった。
鍵を閉めなきゃと思いながら、私はしばらくドアを見つめていた。
河村さん、伝わった?
浮気じゃなくて、恋だったんですね、あなたがしたかったのは。
もっと早くそれに気づいてあげられたらよかった。でもそれ、相当勝手な話だってこと、わかっていますよね?
私、あなたが奥さんとうまくいくようになんてこれっぽっちも願ってないし、会社で嬉しそうに子供の話をする姿なんて想像したくもない。
でも幸せになってほしいの。
奥さんとも、お子さんとも。
三人で、心から笑っていてほしい。
大好きでした。
これからも大好き。
だからさよなら。
あなたのことで泣くのも、これが最後。灰皿も靴べらも、見えないところにしまって忘れます。
捨てるのはそう、たぶんもう少し後。たとえばあなたが、本当にいいお父さんになるのを見届けてから。
こんなこともあったなって苦笑して振り返ることができるようになってから、勢い任せじゃなく、じっくり冷静に処分します。
愚かな自分と一緒にね。
部屋に戻ると、強烈なお酒の臭いと煙草の煙。
その中に明らかに残る、彼の匂い。
換気ついでにベランダに出て、涙で揺れる月を見上げた。
このときのために、私を自分のもののようには呼ばずにおいたのね。私にも決して名前で呼ばせたりしなかった。
深く深く傷ついて、臆病になっていた人。
わがままで残酷で、それでも優しかった人。
夜の空気になぶられながら、頭が痛くなるまで泣いた。
涙が枯れると、ふと決意が湧いてくる。
別な恋をしよう。
たぶん私にはできる。あれだけ愛された私になら、新しい誰かが必ず現れる。
河村さんの楽観主義が移ったみたいな、そんな確信が芽生えたことに自分でびっくりして。
それこそが、最後に彼がくれたものだったと気づいて、また少し泣いて。
独身の素敵な人というのは、いったいどこに生息しているんだろうと、真剣に考えた。
Episode 02.
草も生えない
-End-
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