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先週、父に脳腫瘍が見つかった。末期だった。悪性だったせいで身体中に転移していた。もはや全てが手遅れだった。父はわたしのことを完全に母と思い込んでいた。わたしは家から出ることも出来ず、そして父は。
*
「とうさんの手を振り払ってきたわ。わたしはとうさんを裏切ってきた」
「あんたの父さん、いま、どこに」
「海に、」
そうわたしは。父がわたしの腕を掴んで崖から飛び降りようとした瞬間に羽織っていたコートを脱ぎ捨て、邪魔くさいハイヒールの靴をぬぎすてて死体のように冷たいコンクリートを踏みしめて逃げてきたのだ。
「父は、夜の海を、選んだ」
そうわたしは。父を選ばなかった。
「夜の海を選んだって、お月様の元には行けないのに」
この街を捨てた夜の名前を持つ、月の名前の子供を産んだ母の元には行けないのに。
母が残した赤いラジオをいくら抱きしめても、母の腕なんて知らないのに。
*
この赤いラジオをお前の母さんにプレゼントしたんだよ、と優しく教えてくれたわたしの父はもう海の藻屑だ。
*
うふ、と笑い声が零れる。父がわたしに強要した母の色っぽい笑い方。うふ、うふ、うふふ。こんな、似合わない笑い方を、わたしはこの一週間ずっと浮かべていた。
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