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昨今、表札なんて掲げたマンションはあまり見なくなった。お隣さん事情は知らないが引っ越ししてまだ間もない僕にはなおのこと。
「織田さん、とにかくお部屋に戻ろうよ!ねっ?」
しかし、ここでやんわりと訂正してやるような優しさは、生憎持ち合わせていない。
僕のスエットの袖を引っ張って彼女はどんどん『織田さん』の部屋の中へ入っていく。家具の配置は違くても間取りは同じようなものなんだろう。
「織田さんは、……いつもこの時間、おうちにいるんですか?」
ええ、と短く頷くと、ほんの僅かに彼女の肩が強張るのが見てとれた。
僕の知っているお隣さんのサラシナココロは、いつも弱々しい独り言を吐きながら体を丸めてバルコニーに踞っている。
決まって騒音の後。
「先週末、大丈夫でしたか?」
僕が心配を装った意地悪を口にするや否や、するりと僕の袖から指が離れる。
その仕草に、なんだかもどかしい気持ちになったけれど、今はそんな自分の感情よりも追及したい対象があるので深くは省みないことにした。
「サラシナさん、確かお姉さんと二人暮らしですよね?」
「……うん、あ、はい」
「敬語じゃくていいですよ」
「自分だって敬語じゃないですか」
「僕のこれは職業病ですから気にしないでください」
「どんな仕事?」
「僕のことは気にしないでください」
「そればっか」
くすっと彼女が笑った吐息と、僕の手が部屋の明かりをつけたスイッチの音が重なった。
目潰しだ。
白色のライトが目に滲みる。
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