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ですから……と続けようとした言葉を慌てて「失礼しました」という苦しすぎる台詞で相殺する。
「長々とお引き留めしてしまいましたね」
屈めていた体を戻して視線を玄関先へ。
「明日も、バルコニーに来ます?」
立ち上がった彼女は玄関に向いてから、独り言にしてはやけに響く声で言う。
「そうならないことを願っています」
僕も彼女を全く映さないで、バルコニーに向かって独り言を放つ。
「お邪魔しました。シノザワさん」
カチャン、とドアノブが小さく鳴く。
一人になった部屋で、さっきまで彼女が埋まっていたソファーに深く腰掛け、ふっとニヤけてしまった口元を誰に見られているわけでもないのに片手の甲で隠した。
明日も、ね。
泣いても泣いても、決して逃げない彼女。先週末、僕が見たのはバルコニーに身を乗り出した彼女の影。
その時の彼女はさっきみたいにロッククライミングなんてダサイ動きはなくて、すすり泣く声は痛々しいくらい枯れていて。
来たら死ぬから、と一度は浮いた体をすんなりとまたその場に落としてサメザメと。
いつも泣いていたから。僕はそれを知っていたから。いつの間にかそれを彼女だと思い込んだ。
掃き出しの窓から漏れる明かりはそんな彼女に影を重ねる。
助けてなんかいない。
僕はただ同じようにバルコニーに立って、咳払いを一つしてやっただけ。
僕が見たのは“彼女”ではなかった、と合点がいくには随分と時間がかかったわりに、随分あっさりと府に落ちる。
遡るのは今日ではなく、先週末でもなく、僕が引っ越してきたご挨拶の日。
『隣に越してきた篠澤です』
僕が出向いたのは昼頃。
『妹は大学に行ってますので、改めてこちらからご挨拶に伺います』
お隣さんの騒音問題なんてまだ知らないぼくはそれを丁重に辞退した。
隣人とご近所付き合いを望んでいるわけでもなかったし、形式だけのものだったから。
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