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僕のご主人さまは僕を亡くしたことがある。
火曜日の夜、週末に閉じこめていたセンチな気分が噴き出し、むかしの僕の写真を握りしめて泣き出したのを見ると、僕はどこをどう間違えてネコに生まれてきてしまったのだろうと思う。
僕はここにいるよ、むかし君にルッちゃんと名づけてもらった文鳥さんは、ネコ耳をつけて君の足もとにいるよと言ってあげたいけれど、にゃあとしか声が出てくれない。
とはいえ、同じ文鳥さんに生まれてきていたら、果たして彼女は僕をもう一度いっしょに住まわせてくれただろうかと思う。
僕のご主人さまは朗らかに笑う。
水曜の朝、散らかった部屋で目覚め、昨晩僕を驚かせてしまったことにごめんねを言いながら髪を結うのを見ると、世界中の誰よりもとは言えないけれど、君は君なりに精いっぱい優しいんだよと言ってあげたくなる。
それなのに僕の口からは、なあとしか声が出てくれない。
ねえとすら声をかけてあげられない。
そういう日の夜、きのう泣いたおかげで気分が上向き、僕の背中をなでなでしながらスマホのゲームをいじっているのを見ると、テレビのCMさえ内省的になったこの都市で、彼女はどんな理由があって感じやす過ぎるこころを持って生まれてきたのだろうと思う。
夜更けになってから洗濯物を干して、眠剤を半分だけ飲んで、二週間分溜めてしまった収支計算をエクセルに打ち込んでいるのを見ると、そろそろ眠らないと明日の予定に響くよと心配になってしまう。
僕のご主人さまには幾人か友だちがいる。
祝日の木曜の午後、友だちと遊ぶ約束があるのに、どうしても布団から起き上がれず、行こうか行くまいかと、行けないのにもかかわらず二時間も三時間も思い悩んでいるのを見ると、この僕の視覚を通して彼女がどんな様子で約束を断ることになったのか、友だちに見せてあげたいと思う。
その日の夕方、彼女が子ども向けの番組を見ながら、気だるそうに洗濯物をたたんでいるのを見ると、秋はつらいよ、僕だってそうさ、冬晴れが来るのが待ち遠しいねと言ってあげたくなる。
一年ぶりの秋の空気を呼吸すると、胸を突かれるような記憶のとげが体内で膨張し、泣きそうになってしまう。
明けて、秋雨の金曜日。
それでもご主人さまは会社に行く。
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