千の夜を越える猫

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木陰の向こうにもうひとつの人影が近づく気配があった。 「静、何してる?今日は風が冷たい。体に障るから早く部屋に戻った方がいい」 「あ、正孝お兄様、大きな声を出してはだめ。夜が逃げてしまったのを、この子が捕まえてくれているの。なんだかふたり、そっくりでしょう」 「あぁ、本当だ」 すぐに少女の兄だとわかる美しい相貌を和らげ、男が微笑む。ふたりがそこにいるだけで、陰鬱だと感じていた景色を変えてしまっていた。さらさらと風と木の葉が立てる音は音楽のようで、木々の隙間から細く差し込む光は、ふたりにだけ落ちる金の糸のようだった。 「あなた、うちに働きに来たのね。名前はなんというの?」 名前など長く呼ばれたことはなく、本当に忘れてしまった。間があった後『名前がないの?』という少女の問いかけに小さく頷いた。 「じゃあ『千夜』っていうのはどうだ?」そう言ったのは兄の方だ。「夜とそっくりだし。千の幾年も長く幸せでありますようにっていう願いをこめて」 私は胸が痛くなり涙をこぼした。自分に対して『幸せ』などという言葉を使う人がいるとは思いもよらなかったのだ。 「あらあら、泣いているの?嫌なことを思い出させてしまったのかしら」 心配そうに顔を覗き込んできた少女に向かって、やっとの事で「名前、嬉しくて」と声を絞り出す。安心したように顔を見合わせるふたりこそ『幸せ』が似合う兄妹だった。 「お兄様、私この子を送るついでに部屋に戻るわ。行きましょう、千夜」 別れ際、自分の髪から細いかんざしを抜き、目の前に差し出した。繊細な飾り彫りが施された先端に小さな緑の石が光る。 「綺麗でしょ。夜の目の色とおんなじ、翡翠というの。夜を捕まえてくれたお礼よ。あなたにあげる」 そんなものをもらうわけにはいかない。私は後ずさり、首を左右に振った。 「私よりもあなたの黒い髪に似合うもの」 そんなはずはなかったが、少女は私の髪にかんざしを差し込んで笑った。 「あとね、新しい名前を名付けられた記念よ。きっと素敵な名前が素敵なことを呼んでくれるわ」 また泣きそうになっている私の腕の中で、猫はくたりと温かかった。
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