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火事騒ぎに人々が興奮して入り乱れる中、どこにも見当たらない正孝の姿を必死で探した。くすぶっていただけの火はどんどん広がり不安を煽る。すっと頭に入り込んできた恐ろしい考えに息が止まりそうになる。
正孝はまだ屋敷の中にいるのではないか。
ぐずぐずしてはいられない。すぐに裏口から飛び込んだ。そして、ぱちぱちと音を立て火が迫る座敷に正孝の姿を見つけ、心臓が止まるかと思った。
「千夜、ここで何をしている?早く逃げないと、火が回ってしまう」
正気を失ったかのように酒を煽っていた正孝が、私を心配したことに驚いた。
「正孝様こそ逃げなくては!早く!」
煙でやられた喉の引き攣れに耐えて叫ぶ。
「私は、もういいんだ。静がいなくなって、私の人生などいつ終えてもいいということに、やっと気づいた。男である私は結婚して命を繋げるなんてこともないし、このまま生きていても、ただ毎日を無為に過ごすだけだ」
私の世界は色も音も失った。庭を彩る自然を愛で、穏やかに過ぎていた暮らしはなんだったんだろう。もちろん静はかけがえなのない人だ。それでも、それ以外に正孝を生かすものは何もないというのか。
「もう私には、何もない」
あれほど幸せという言葉が似合うと思った人が、毎日になんの意味も見出せず、絶望して生きていたというのか。
正孝の隣に腰を下ろして膳から酒の徳利をとり、彼の方に傾けた。
「千夜?」
「では、飲むことといたしましょう。静様も正孝様も、正孝様の世界も失ったら、私にも何も残らないのです」
「何をっ!お前は私の巻き添いになってはいけない。生きなくてはいけない」
「もう、いいんです」
いっこうに正孝のちょこが空かないので、勝手に自分用に酒を注ぎ口元へ運ぶ。初めての酒の味を知る前にそれは奪われた。
「あぁぁっ、もう!何をしている。行くぞ!」
突然腰から抱きかかえられ、視界がぐらりと揺れる。正孝の背にしがみつき、私は泣いた。嬉しくて泣いた。
この人は今、生きようとしている。私を生かそうとしてくれている。
しかし、火のまわりは思いの外早かった。この後、私はこのときのことだけを胸に、魂となって幾年も彷徨った。
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