千の夜を越える猫

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「で、俺は何をする?」 「職安に行くんだ。まずは仕事を探す」 「仕事?ほぉほぉ、仕事な。俺が働くのか?」 「他に誰がいる。私が働けるわけないだろう!」 「働くのか…以前のことはあまり記憶にないが、ピンとこない」 「働かないと食えんぞ。あっという間に私と飢え死にだ」 この男は生まれてこの方、仕事どころか、生産的なことを何もしたことがない。旗本の三男坊として生まれた彼は養子に出ることもなく、職につくこともなく、学を成すこともなく、家の離れで気ままに暮らしていた。今で言うニートというやつだ。 優秀な長男に恵まれ、そこそこ裕福だった家は、居れば居るだけの三男に全く無関心だった。美しい容姿を持つ彼は遊び人の態だったけれど、酒や遊女に溺れるといったこともなく、両親はそれだけで満足していた。女であればいい家に嫁がせたのに勿体ない、と誰もが陰では言っていたのではあるが。 彼は病弱な妹の話し相手をしたり春の芽吹きや月なんかを眺め、自分の生まれついた境遇を憂うことはなかった。 「ところで、俺の名前は?」 「正孝(まさたか)正しいに孝行の孝だ。家に尽くし、精一杯働き、努力するという意味だ。家はないからおまえは自分のために働け。もう甘やかしてくれるものはないぞ」 「うぅぅん。何だか気が進まんな。初日はとりあえず散歩でもして、新しい世界とやらを見てみるか」 はっ!?そうだ、こういう人だった。まぁ死の淵を彷徨ったからといってその記憶も曖昧で、いきなり人に変われというのも無理だろう。そのために許された時間だ。 何もしていないのに、窓から差し込む西日の角度も色も変わり、時が過ぎたことを示している。 「行くぞ」 腹の下に手を回されひょいと掴みあげられると、胸に抱かれた。猫を抱いての散歩など、正気の沙汰とは思えない。しかし、この人をひとりで外に出すのも心配だ。それはどこか言い訳じみていると感じた。それでも何も言わず温かな腕の中で大人しく揺られ、街へと出た。
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