千の夜を越える猫

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「これからは、おまえの人生を生きろ。猫だから猫生か?おまえこそ、俺のためではなく、自分が思うように生きろよ。好きなことをして、誰かを愛し、自分のために震えるほどの感情を味わい尽くせ」 私が過ごした時をもろともせず、今ここで突き放す優しさが、胸を刺す。受け入れられないものを曖昧にして期待をかけさせるのは、残酷なことだと知っている。 恋ならした。とてつもなく長いこと。 『頼んでいない』 それはなんて残酷で、尤もな言葉だろうか。そうだ、私は正孝に生きて欲しかった。炎の中で「俺には何もない」と呟いた彼に、光り輝く新しい世界を見て欲しいと思った。『私が』そうして欲しかった。彼に自分の心を投影していた。 わかっていたはずだ。これはもはや『呪い』でしかないと。 それでも、正孝は再び生を受けたことを喜ぶのではないかと何処かで思っていた。勝手に、信じていたのだ。彼が自由になって生き直す世界は、美しいに違いないと。 見開き過ぎて乾いてきた目を閉じた。数百年の移ろう怒涛の景色より色鮮やかなのは、離れの縁側に正孝と並び眺めた新緑の色だった。春の盛りを過ぎた匂いを含む風が、正孝の髪を揺らしていた。 『この季節、こうして庭を眺めるのは一番心地がいい。おまえもここに座って見てごらん』 正孝だけが、私の存在を認めてくれた。 「おまえ、夜じゃないな。…千夜(ちや)」 その言葉が、江戸の時代まで遡った離れの縁側から現代の寂れたアパートまで、瞬時に意識を引き戻した。 そしてもう一度、その名が初めて正孝に呼ばれた時のことを思い出していた。
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