千の夜を越える猫

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千夜という名前をくれたのは、正孝だ。 生まれついてか環境のせいか、幼い頃からほとんど言葉を発することができなかった私は、遊郭ではなく女中として旗本の屋敷に奉公に出された。 言いつけをよく守らなくてはいけない。余計なことはしてはいけない。 屋敷に着いた当日、頭の中でそう繰り返しながらキツネ目の女中頭について歩いていたはずが、ずっと見つめていた彼女の着物の裾は気づくと視界から消えていた。ぼんやりとしているうちにはぐれてしまったらしい。 整然とした正面の庭とは違い、鬱蒼と茂る木々に囲まれあたりは薄暗い。 どうしよう。怒られる。怖い。 不安の中でゆるゆると足を進めていたら、足元に温もりを感じた。にゃーんと鳴きながらすり寄る小さな黒猫に気づき、そっとその背を撫でてやる。 「あぁ、そのまま、そぉっとその子を捕まえて」 鈴のような澄んだ声が遠く聞こえた。思わずそちらを見ようとしたが、猫が逃げてしまうことを恐れ、声の主を確かめることなく反射的に黒猫を抱く。 「そのまま、そのまま。落ち着くまで優しく撫でてあげて」 猫を撫でながら自分よりも少し年嵩の少女がこちらに近づいてくるのを見たとき、本物のお姫様だと思った。年齢に相応しくなく髪を子供のように下ろしていても、その内から滲むような美しさは上等な着物よりも際立っていた。 「あなた、黒い髪が夜にそっくり。夜ってね、この子の名前よ」 にこりと笑う唇の角度まで優美な様から何もかも、初めて目にするものだった。
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