1 朝のパン屋で

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 小麦とバターのおいしい匂いに包まれて、売り場には、私ひとりきり。 「ふふふん」  鼻歌も歌ってしまうというものだ。  そのまま、パン耳が詰められた袋、バゲットを一つ、クロワッサンを三つトレイに載せる。 「おや」  見たことのないパン。家族の誰からもそんな話は聞いていないし、最近出た新作のようだ。  バラの花のような、ひだのあるフォルム。生地に、クリームが練り込まれていて、そのクリームにも何か入っている。  パンの説明には、”バラの花びら入り”の文字。お母さんが好きそうだなぁ。帰ったら教えてあげよう。  ずらりと並べられたパンを見ていると、いつまでもこの楽園にとどまっていたいと思ってしまうからよろしくない。大変よろしくない。早く会計をすませてしまおう。  カラン、カラン。  二人目のお客さんの登場。 「おはようございます」  とっさに会釈すると、おばあさんも微笑んだ。 「おはようございます」  落ち着いた声音。まるで抹茶のような。  身なりの良い、その初老のおばあさんは、真っ先にバラのパンを取った。  トレイを取ってからのスムーズな一連の流れ、迷いのないトングさばき。常連に違いない。   新しいものを真っ先に買う人のことを、何と言うんだっけ。マーケティングの講義で習ったあれは、そう、イノベーター!  「いらっしゃいませ」  奥から出てきたしおりさんが、イノベーターおばあちゃんに笑顔を向ける。その手にはホノカパン!  私は、にこにこしながら、「お願いします」と会計カウンターにトレイを載せる。しおりさんは手際よくそれらを袋に詰めてくれた。 「ありがとう。また来てね」  ほんのりと、しおりさんの声がバラの香りをはらんだ。 「はーい。ありがとうございますです!」  小さく手を振って、ドアを押し開ける。  カラン、カラン。  冷たい空気が、楽園の香りと混ざり合う。  そうだ。楽園に居続けるわけにはいかない。私たちは帰らなくちゃいけないのだ。  この手に、お土産をもって。  時刻は午前八時十五分。  帰ったらカフェオレを淹れて、炒り卵をつくろう。  パンを軽くトーストしたら、楽園の匂いが家族の目を覚まさせてくれる。
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