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全てを忘れてしまったアリスエルダははたから見ても、とても不幸で、けれどありふれた環境の中にいた。
――嗚呼、可愛そうなアリスエルダ。此方へおいで。
アリスエルダは顔を上げた。
何か、恐ろしくて優しい声が聞こえたような気がして。
なんとなく、アリスエルダは歩み出す。
声が手招いている場所は、恐らくこちらだという確信めいた何かがアリスエルダにはあった。
「だ、れ……?」
アリスエルダは久しぶりに喉を震わせた。
いつも村の人々との会話は頷くだけで終わってしまうから、アリスエルダは声の出し方さえも今の今まで忘れてしまっていた。
か細く、アリスエルダ自身にさえ聞こえるかどうか、といったその声は聞こえる筈もないのに、その声は答えた。
――知りたいのなら、此方へおいで。あと、一歩。此方へ踏み出しておいで、アリスエルダ。
そのままアリスエルダは一歩、踏み出した。
すると、周りにあった背の高い木々がぽっかり消えたちいさな場所に出た。
そして、そこには一匹のおおきな狼が尻尾をゆらり揺らしてアリスエルダを迎えていた。
「初めまして、アリスエルダ。」
狼は喋らず言う。
口を開けず、喉を震わせず、空気を揺らすことなくアリスエルダに言葉を届けた。
アリスエルダは先ほどの声はこの狼の声なのだと納得して、自らの口を開く。
「はじめまして、おおかみさん。」
狼は目を細めて、一つ、尻尾を打った。
銀色に光って見えるうつくしい毛並みは、アリスエルダの目を引く。
アリスエルダは、うつくしい銀色の毛並みと黄金の瞳にじっと見惚れた。
「僕は、狼ではないんだよ、アリスエルダ。何故って、だってこんな不可思議ないろをした狼がいる筈がないからね。ねえアリスエルダ、君はこんないろの狼を、知っているかい?」
「しらない。」
「だろう、だから僕はね、狼ではないんだよ。解るかい、アリスエルダ。」
「わかる。」
狼はにっこりと笑った。
狼の表情なんて読み取れるわけではないが、雰囲気がそうと感じさせた。
アリスエルダは、何故この狼ではない狼が自分の名前を知っているのかと、少し不思議に思った。
「ねえ、おおかみじゃないおおかみさん。あなたはなぜわたしのなまえをしっているの。」
「嫌だなあ、アリスエルダ。そんな長くてまどろっこしい呼び方じゃなくて、ミルファーレンと呼んで欲しいな。」
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