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その美しい人は、兄を「忍君」と呼んでいた。
とても親しげに。
兄の傍には、あんなに素敵な女性がいた。
その関係は、ただの知り合いではないように見えた――。
家に帰った美羽は、リビングのピアノに向かっていた。
無心に、何かに憑りつかれたように弾く。
何も考えたくなかったのだ。
美羽にはずっと、ピアノがあった。
辛い事があっても、哀しい事があっても、苦しい時も、やり切れない時も、ピアノを弾けばその世界に入り込み、何もかもが吹き飛んだ。
ピアノは、美羽が嬉しい時はそれに応えるように楽しい音を奏で、一緒に喜び、悲しい時は、慰めるような優しい音で美羽を包み込んでくれた。
けれど、今は。
出したい音が、出ない。
弾きたいものが、弾けない――。
あの、コンクールのリハーサルで倒れ闘病した2年間のブランクで、美羽の培ってきたテクニックはガタガタになった。
そして何より、左腕は、シャントという血管を埋め込まれてしまった為大きな負荷を掛けられず、弾く曲まで制限せざるを得なくなっていた。
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