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「おがたく……」
かろうじて発した声は震えてしまい、その声が香織の中の堰を切らせた。
堰き止めていたもの、全てが彼女の中で怒涛の波となって襲い掛かった。
「花村先生……」
香織は、何もかも――目の前にいるのが生徒である事も――忘れ、ぽろぽろと涙を流して泣き出していた。
暫しの沈黙を経て忍は深くゆっくりと息をつき、布団を被ったまま動かない香織に静かに語り掛けた。
「医師が、目の前の現実に愕然とし、絶望に近い虚無感に襲われるのは、重症の患者さんを目の当たりにした時でも重篤な患者さんを診た時でもないんです。
自ら‘生’の権利を放棄した人間の命を助けなければいけない時なんですよ」
自らの命を断とうとした者に、その行為を否定し不安定な心を刺激するような言葉を掛ける事は本来ならタブーだ。
しかし、忍が香織にこんな言葉を掛けたのは、二人の間にある親愛を、信頼の絆を信じたから。
ほんの束の間――決して許される筈のない禁忌であったが――温かな情を交わした相手であったから。
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