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美羽は、忍の静かな言葉に、ハッと顔を上げた。
車が動き出し、忍は前を向いたままだ。
「お兄さん……」
忍が、美羽に渡したチケットとは、美羽の、因縁の曲であるラフマニノフのピアノコンチェルトが演奏されるコンサートのチケットだった。
場所に於いても、奇しくもあの日と同じ、池袋芸術劇場の大ホール。
ロシアの有名な管弦楽団による来日公演で、クラシック愛好家の中でプレミアとも言われているチケットだった。
こんなチケットを忍は何処で入手したのか、という疑念を脳裏に横切らせながらも、美羽は、今兄が言った一つの言葉を反芻した。
「私の……未練……」
美羽が、本当に次のステップに進む為に、断ち切らなければいけないもの。
今、やっと一歩踏み出しかけた美羽だったが、彼女の中の未来への時計は、あの、4年前のあの瞬間、あの場所で、止まったままだった。
あの日、突如として失ったピアノと歩む道。
その事実から目を逸らしたまま踏み出す新たな一歩など、虚像にすぎない。
直ぐに崩れる。
その事を懸念していた忍は、この曲をあの日と同じ場所、同じ空間で‘第三者として’最初から最後まで生で体感し、聴き、対峙することが出来れば、美羽の中で中途で途切れてしまっていた‘ピアノに掛けた夢’が完全に過去のものできるかもしれない、と考えたのだ。
だから忍は、あえて美羽が抱えるピアノに対する想いに‘未練’という厳しい言葉を使った。
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