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まったく覚えていないわけではない。
子守唄を歌ってくれた優しい声、抱きしめてくれた柔らかく温かな腕の感触の記憶は、美羽の身体の一部となっている。
ただ、母の香りは、薬剤の匂いにかき消されてしまっていた。
優しい子守唄に、心電図の電子音が時折混じってもいた。
そして、顔は――記憶の中の視野に残る母はおぼろげで、遺影の中で微笑む母と結びつくことはなかった。
カウンター向こうのキッチンで、グラスを洗い、瓶を片付ける和也は、ゆっくりと口を開いた。
「身体は弱かったけど、芯の強い、優しい子だったよ」
和也の表情がいつにも増して柔らかく見え、美羽はドキンとした。
どこか、特別な感情が見え隠れしているかのように思えた。
「お父さん?」
胸に湧いた小さな不安。
美羽が父にその先を聞こうとした時、洗い物を終えた和也が手を拭きながらキッチンから出てきた。
柔らかに微笑み掛け、言う。
「美羽、美味しいお茶を入れてくれないか。
美羽が淹れてくれたお茶が飲みたいんだ」
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