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あなたの中にいるのは、誰? プライドが邪魔をして聞くことすら出来ない。
冷たく、刺すような北風が、綾子の心に追い打ちをかける痛みを与えた。
込み上げてきそうな涙をグッと堪え、綾子は立ち上がった。
悔しいからもう少し、と言葉を継ぐ。
「医療に携わる者は、指に不用意な傷、作っちゃダメよ」
「気を付けます」
苦笑を交え、肩を竦める忍の姿。
深く、低く、甘く響く声。媚薬の刺激となったそれらに視覚も聴覚も深淵まで毒されてしまう。
忘れなければいけない、という事実がこんなにも辛いことなんて。
「もう一つ、いいかしら」
綾子の声が、低くなり、忍は顔を上げた。
「ここは、思いもよらない誰かが敵になったりする世界よ。
気を付けなさいね」
微かな、柔らかなフローラルの残り香を置いて、綾子は振り返ることなく去って行った。
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