君がくれた世界

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***  広島に越してきて、何とか周囲の状況に馴染んできた梅雨の終わりの頃。  俺は母親と二人で住むアパートからJRとバスを乗り継いで転校した高校へ通っていた。最初は、ゆうに一時間はかかる通学路にうんざりした。でも、その一時間が当たり前になってくると今度は帰りに気が向いた時だけ、広島駅前から発車する宮島口行きの路面電車で帰宅するようになった。  家までの時間はほぼ倍になったけれど、ゆっくりと流れる街並みを眺めたり、心地好い揺れに身を任せて居眠りしたりと短い電車の旅を満喫した。さらに時間があれば、本来降りる電停を越えて終点の宮島口にまで行くようになった。  自分の家に近い神社近くの電停を乗り過ごすと電車は海沿いを走り出す。宮島口までのほんの少しの区間だけれど、夕焼けに紅く染まった空と海の景色は、とてもきれいだな、と思った。  そんな中で何度か、あの車掌が乗務する電車に乗る事があった。低くて落ち着いた、はっきりとした口調の彼のアナウンスはなぜかいつも耳に残った。  不思議な事に、いつもぼんやりとしか認識できないニンゲンの中で、彼の顔だけがはっきりと目に捉えられた。そして、その車掌の名前が村瀬だということも、彼の制服の胸につけられた名札で知るようになっていた。  その日は明後日から始まる期末試験を前に、俺はいつものように広島駅前の路面電車乗り場で宮島口行きの電車を待っていた。夕方六時過ぎの駅前は、家路を急ぐ人たちとプロ野球の試合を観に行く人たちでごった返していた。  それにしても、蒸し暑いな……。  この街は午前中は風も吹いて涼しいのに、なぜか夕方になるとぱたりと空気が止まる。それに、じめじめとした梅雨の空気に塩っぽい海の臭いが充満して胸が焼けそうだ。線路との段差のあまりないホームの先頭に立って、ふわあ、とあくびをしていたら、 「小泉(こいずみ)!」  急に名前を呼ばれて、どん、と肩を叩かれた。俺にぶつかってきた奴へ目を向けると、入ってきたのは俺と同じ制服のシャツだ。かけられた声と少し着崩した制服姿を思い出す。  あ、あのシャツの襟元のだらしない感じは……。 「……危ないだろ? 山内(やまうち)……」  へへへっ、とそいつが笑って、もう一度軽く俺に体当たりしてきた。
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