君がくれた世界

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「一番前に並んどったら、人が多(おお)なって後ろから押されたんです」  そうか、と彼が一つ頷いた。  村瀬ぇ、と、さっきの駅員が俺たちに近寄ってきて彼に何かを話しかける。どうやら彼に俺と一緒に病院へ行くように言っているようだ。  そのうち、大きなサイレンの音を響かせてやってきた救急車からストレッチャーを引いた救急隊員がホームに上がってきて、俺の近くにそれをセットした。  救急隊員の手を借りてストレッチャーに横たわると、 「小泉くん、だったね。誰か連絡をする人がいるかな?」  横たわったまま救急車に運び込まれる俺に、彼が一緒に乗り込みながら訊ねてきた。山内のヤツ、やっぱりあれだけ大声で叫ばれたら、皆に名前がバレバレじゃんか。 「母に連絡します。多分、今はまだ仕事中だからあとで。あの……」  ばんっと救急車の扉が閉められて、大きなサイレンの音がまた響き始めた。救急隊員が俺に、血圧計やら体温計やらを着けているうちに救急車が動き出す。  そんな忙しない中で、俺の顔を真剣に見つめる彼が自己紹介をした。 「俺は、村瀬寿明(むらせとしあき)。路面電車の車掌をしているよ」  うん、知ってる。でも、下の名前は初めて聞いた。 「……小泉一人(こいずみかずと)です」  うるさく鳴っているサイレンの中で小さく自分の名前を言ったのに彼にはちゃんと聞こえていたのか、俺に向けて優しく笑いかけてくれた。  運び込まれた病院で受けた診察の結果、骨折は免れたけれど右足首の靭帯を伸ばしたとかで、一週間のギプス固定をする羽目になった。  診察の合間に母親に連絡をして、村瀬さんも何度か掛かってきた電話に応対していた。  そしてたまに、時間かかるね、とか、痛みは無い? とか、他愛もない会話を数回した。  診断結果が出されてから、処置室で右足首を固定されて松葉杖の使い方をレクチャーされて、それらが終わった頃にやっと母親が勤め先の社長と一緒に病院にやって来た。  その頃には村瀬さんはすでに帰ったあとで、代わりに事故の担当者だと言う鉄道会社の人が来ていた。  お礼も、ちゃんと言えなかったな――。
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