君がくれた世界

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 別に急いでいる訳でも無いのに、なぜか乗ると返事をしてしまった。車掌台の村瀬さんは一つ頷くと、そこから出てきて、 「ゆっくりでいいから。左手の松葉杖を貸してくれる?」  言われるがままゴトゴトと電車の入り口に寄って、村瀬さんに片方の松葉杖を渡す。 「左側に小さなステップがあるだろう? そこに足をかけて、左手で……」  村瀬さんの指示通りに左側の握り棒を持って右手の松葉杖を支柱に、よっこらしょと入り口の段差をクリアした。  ところが途端に、グラリとバランスを崩して思わず右足を床に着きそうになったところで、村瀬さんが咄嗟に左の二の腕を掴んで、ぐいっと支えてくれた。 「す、すみません」 「いいよ。あそこに座って」  指された席は、村瀬さんの立つ車掌台の後ろの席だった。  預けていた左の松葉杖を返されて、席に座った俺が落ち着くまで、村瀬さんはいつでも介添えが出来るように後ろでスタンバイしてくれていた。  俺が座ったのを見届けると、村瀬さんは車掌台に滑り込んで安全確認をしてから発車の合図を運転士に送って、やっと路面電車は静かに動き出した。  ――みんなに迷惑かけちゃったかな……。  少し前に体を傾けて車内にくるりと視線を向けてみたけれど、ポツポツと座っているニンゲンたちは別に何も気にも止めていないように見えた。  ふぅ、と一息着くと、信号待ちで止まった間に車掌台から後ろに振り向いた村瀬さんが、どこまで? と、聞いてきて降りる電停を伝えた。  この席、結構、近い……。  前を向いて、車内アナウンスをする村瀬さんの大きな背中が直ぐ傍にある。少し横に顔を向けて、上目遣いでその白いシャツの背中から後頭部へと視線を移してみる。  半袖のシャツからは程好く日焼けした引き締まった腕が覗いていて、さっき掴まれた二の腕に鈍い痛みが甦ってきた。左肩から斜めに掛かっている小さな鞄の紐に沿って視線を上げると、襟元から続くスッキリとした首筋を眺めた。  髪、切ったばかりかな?  深緑に金のラインの入った、ちょっと形の変わった帽子の後頭部をぼんやりと見つめる。すると、電車が左に大きくカーブし始めて大きな音を立てて松葉杖を倒してしまった。
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