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その様子を電停のホームから見上げていた俺に、彼は車掌台の窓から半身を出して、
「またね、小泉くん。気をつけて。ご乗車、ありがとうございました」
笑顔で帽子のつばにちょっと手を添えて、村瀬さんは電車に揺られて行ってしまった。
ああ……。行っちゃった……。
でも、名前を覚えてくれていた。笑顔も眩しすぎだし、優しく手を差し出してくれたし、それに……。なぜだか妙に顔が火照って熱い……。
さっきから心臓のバクバクが止まらない。きっと沸騰しそうな血液が全身を駆け巡っている。だから熱いんだ。頬っぺたも、抱えられた腰も、掴まれた腕も、彼の胸に当たったおでこも……。
見えなくなった電車の軌跡を追うように真っ直ぐな線路を見つめた。熱く照りつける太陽のせいで、線路が少し揺らめいて見えた。
そう。俺の見ているこの世界は、いつもこんな風に揺らいでいる。
反対側の電停に視線を移してみる。上りの電停にはおばあちゃんが一人、ちょこんと座って電車を待っていた。その、おばあちゃんの顔をじっと見て、
――ほら、やっぱりね。いつもと全然変わらない。
急に状況を認めてしまうと、何もかもが色を無くしてモノクロに見えてくる。なのに……。
なのになぜ、彼だけがはっきりと瞳に捉えられるのだろう?
あの日、初めて彼を認識してから彼がいる周りだけが、総天然色で優しい世界に見えた。そして、さっきの彼はとても鮮やかに全てがくっきりと形を成していた。
ぼんやりと目に写るおばあちゃんのいるホームと下の線路を見てみる。
段差なんて大したこと無いのに。普段なら例え強く押されても、線路に落ちる事なんて無いのに。なのに俺は落ちてしまった。そればかりか派手に転んでしまった……。
つぅ、と首を一筋の汗が流れるのが感じられる。それを認めた途端、なぜか急にパアッと全てが判ってしまった。
……そうか、俺、落ちちゃったんだ。線路じゃ無くて、恋、に……。
俺は彼に、見事なまでに彼に転んじゃったんだ……。
派手な音をたてて松葉杖をつきながら家へ向かう。ジリジリ焼かれる陽射しの中で流れる汗を拭うことも出来ず、この感情に至った経緯を分析した。
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