君がくれた世界

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 よろけた彼を振り返りもせずに、船着き場前のロータリーを一直線に走り抜けた。  急に走り出てきた俺に、驚いてタクシーが急ブレーキをかける。キキッという軋んだ音と同時に、村瀬さんが俺を呼ぶ声が聞こえたけれど、両耳を塞いで遮断した。  村瀬さんが女と会っていたカフェの前の横断歩道も突っ切って、宮島線の駅舎に走り込むと、電車の出発を知らせるブザーが鳴っていた。  ズボンの後ろポケットから財布を取り出して、改札のカードリーダーに押し当てる。ピッ、とカードを確認する小さな音を気にもせずに、扉の閉まりかけた広島駅行きの電車に飛び乗った。  ふおん、と警笛が鳴って電車が走り出す。後ろの車輛の一番端に座って、ハアハアと呼吸をしながら背中を丸めた。  駆け込み乗車はご遠慮ください、と、まるで自分に当てつけたようなアナウンスが走行音と共に車内に響いた。カタタン、カタタン、と電車に揺られる内に、徐々に気持ちが冷静になってくる。  なんで、泣いちゃったんだよ、俺……。  丸めた背中を伸ばして前を向くと、車窓から薄い灰色の海と少し靄のかかった遠い島が見えた。でも、すぐにその風景は後方へと流れていって、降りる電停に近づいているアナウンスが聞こえてきた。右手で頬の涙の痕を拭うと、  チリッ――。 痛っ。  口の端の内側に小さく痛みが走る。舌でそこを触ってみると、鉄臭い風味が口の中に拡がった。触る舌先に内側の粘膜が剥がれているのが感じられる。  何だよ。最初で最後かも知れないキスが、レモン風味でも煙草のフレーバーでも無くて血の味だなんて。  こんな、最悪なファーストキス。  ありえないよ……。  電車から降りた俺に向かって、海からの刺すような冷たい風が吹き荒んだ。
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