君がくれた世界

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 急に鼻の奥がツンとした。閉じている瞼の裏側が潤み始めて、瞼から溢れた水分がジーンズの生地を透して膝小僧に届いた。  無理だよ、そんなの。だって、俺は男じゃん。  村瀬さんには彼女もいたんだ。あの人、きっと女にモテるよ。凄くいい男だもん。俺じゃ、最初から相手にならないよ。  どんなに頑張っても、何かの拍子で上手く転んでも、神様が百万年に一度の気紛れを起こしても……。  俺じゃ、老舗旅館の女将になんかなれないよ……。 「……ふっ、……っく」  自然と泣き声が洩れてくる。  もうヤダ、こんなに苦しいの。 もう、死んじゃいたい……。  どれくらい、そうしていただろう。  ひゅうひゅうという風の音と岸に届く波の音に紛れて、小さな何かが当たる音が耳に入ってきた。カツン、カツン、と響く音はまるで女の人がハイヒールで歩く音に似ている。 ずずっ、と鼻を啜って膝を抱える俺の方に、その音はゆっくりと近づいて来ていた。  誰だよ、地元のニンゲンか? 悪いけれど、今は放っておいて欲しい……。  ――すんっ。  ……何かが俺の髪に触った。  ――すんっすんっ。 ふふうー。  冷たい風とは違う生暖かな空気が微かに頭に吹きつけられた。俯いていた顔を少しだけ上げて、涙で霞んだ視界を前に向ける。ぼうっ、とした目の前は薄いオレンジ色で照らされた広場、のはずなんだけれど……。  何だこれ? 濡れていて、黒く光っていて、息……してる? 「わっ」  それが動物の鼻だと判って、思いきり頭を上げた。目の前の鼻は突然の俺の行動にびっくりして、ガツガツと前足を鳴らす。  なに? でかっ。 これは……、鹿?  ようやくはっきりしてきた視界がオレンジ色の中の動物のシルエットを認識した。そこには大きな鹿が俺を見下ろして立っていた。  ――鹿がいるんだ。  ちょっと退いていた鹿が、またこっちに向かって濡れた鼻をつき出してくる。  ――すんすんすんすん、ふふふうー。  匂い、嗅がれてる?  初めて至近距離で鹿を見て、匂いを熱心に嗅がれている状況に体が固まって動けない。急に鹿がぺろんと舌を出して、自分の鼻の頭を舐めた。  いやだ。まさか、あの舌で舐められちゃうの?
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