君がくれた世界

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 上半身を仰け反らせて後ろに両手をついた。湿った土の感触が手のひらを冷やしていく。それでも大きな鹿は距離を詰めて来て、そして――、 「夜中にこんなところで一人でいると、喰っちまうぞ。不良少年」  ……宮島の鹿って――。 しゃべるんだ――。 「……なにを驚いとるんじゃ。ぼおっとしとったらその柔らかい髪の毛、ムシられるぞ。ハゲても知らんぞ」  おまけに広島弁でしゃべってる。それにこの声、村瀬さんの声にそっくり……。  バチンッ!  何かを叩く音が響いて大きな鹿が、ぶるんっと体を震わせた。そしてゆっくりと蹄の音を響かせながら、その場を離れていく。ぶるる、と短い毛並みを震わせて、カポカポ歩く鹿の様子を見ていた俺に、 「カズト」  はっ、と低いその声に視線を移した。  ――ウソだよね? とうとう俺は彼が恋しすぎて、幻想まで見るようになっちゃった? 「そこ、手えつくと鹿のフンまみれになるぞ」  薄いオレンジの照明の下に立つ村瀬さんは、俺に苦笑いをしながら言った。  彼の突然の登場にぽかんとしていたけれど、急にその台詞の意味が理解できた。慌てて両手を地面から離して、バチバチと手のひらを叩く。そして暗い灯りの中でフンがついていないかを確認して、思わずクンクンと匂いまで嗅いだ。 「そんなに慌ててから。大丈夫だ、多分、フンは落ちてない」  村瀬さんは苦笑いのままで俺に近寄ってくる。いつもの車掌の制服とは違って、バイクに乗るときに着ているブルゾンにコーデュロイのパンツ、そしてスニーカー。首には暖かそうなマフラーを巻いている。村瀬さんはそのマフラーを外すと、ふわりと俺の肩に掛けてくれた。 「こんな寒いところにおってから。風邪引いたら大変じゃろ? 受験生」  くるん、と俺の首にマフラーを廻すと、今度はちゃんと笑顔を見せてくれた。  ほんとに――。 村瀬さんだ……。  驚きで言葉の出ない俺の横に村瀬さんはストンと座った。そのあまりの近さに、急に体の半分だけが暖かく感じた。 「ど……、うして……?」  自分でも聞き取れなかった言葉に、村瀬さんは、うん? と返事をして、 「坂井さんが連絡をくれたんだよ。最終便のフェリーにボウズが飛び乗った、って。わざわざ俺の同僚に連絡先を聞いて教えてくれたんだ」
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