君がくれた世界

68/110
前へ
/110ページ
次へ
 坂井さん……。また、目の前が揺らめいてくる。 「なあ、カズト」  ずずっ、と鼻を啜った俺に村瀬さんは、 「坂井さんの顔、分かったか?」 「……分からない」  ほんとは見たいよ。みんなの顔を。 ……みんなの笑顔を。 「カズト。ごめんな」  村瀬さんが俺を見ながら謝罪の台詞を口にする。 「お前の言ったことを信じてやれんで。その……、結構おるんじゃな。他人の顔が認識できない人が」  ――相貌失認(そうぼうしつにん)。  俺は小さい頃に、『失顔症(しつがんしょう)』だと、医者に診断された。 「カズトはその……、先天的なんか?」  もう一度、鼻を啜って小さく頷く。親以外の他人に初めて自分の本当の事を話している。 「幼い頃は特別に気にもしてなかった。と言うよりも、これが、誰々ちゃんの顔、なんて気にしながら遊ぶわけじゃ無かったし」 「それでも友だちの顔が分からないと不便じゃ無かったか?」 「不便だったのは外出先で母親と逸れたとき。親の顔も分からないから良く迷子になった」 「親の顔も、って……。じゃあ、どうやって他人を認識するんだ?」 「……顔以外。ザックリ言うとそのニンゲンの雰囲気。着ている物とか髪型とか話し方、癖なんかの特徴をつかんで覚えていく」 「それは……、結構、しんどいな」 「うん。だから他のニンゲンよりもすごく疲れる。でも、昔から自然とそうやって周囲に合わせて溶け込んでいた」 「親御さんも気がついとるんじゃろう?」  また、鼻を啜って冷たい風を避けるようにマフラーへ顔を埋める。  ――このマフラー。村瀬さんの香りがする……。  ほんとはこんな話、するのはいやだ。だけど、彼に俺の本当のことを知ってもらうには、避けては通れない。 「……親が気づいたのは、あることがあったから」 「あること?」  小学二年生の頃――。  その年の秋、通っていた小学校の周囲で子供に声をかける不審者がいると、ちょっとした騒ぎになっていた。すでに何人かの子供が付き纏われたり手を掴まれたりして、その不審者の特徴が少しずつ鮮明になっていた。 「夕方に独りで家に帰っていたら、父親の知り合いだってオジサンに声をかけられた」  ――お父さんが大変な事になっているよ。
/110ページ

最初のコメントを投稿しよう!

765人が本棚に入れています
本棚に追加