君がくれた世界

72/110
前へ
/110ページ
次へ
「……村瀬さん、俺、大学受かったよ」  また、俺の方へ顔を向けた彼が優しい声色で、おめでとう、と言った。 「一応、東京と広島の二つの大学に絞ったけれど、まだ、どっちにするか迷っているんだ」  そうか、と村瀬さんは再度前を向く。 「どこに行っても一人だから。だから、どこに行くのか決められないんだ……」  ぽつり、と呟いた言葉は海から吹く風の音に流される。だから彼には聞こえなかったのか、村瀬さんは何の言葉も返してこなかった。  二人で黙ったまま時を過ごす。そこへまたあの鹿が目の前を横切って、広場の端の大きな木の下に座り込んだ。その様を横目で見ていると、隣の村瀬さんの肩が大きく上下した。 「カズト」  真っ直ぐに前を見つめたままに呼びかけられる。そして――、 「……俺のこと、まだ、好きか……?」  鹿から村瀬さんの横顔に向き直って大きく目を見開いた。村瀬さんはこちらを向くことも無く、ただ、ひたすらに前を睨みつけているように見えた。  村瀬さんから視線を外して、膝を抱えた手に力を入れる。マフラーに埋めた顔を膝につけて、言っても無駄な想いを吐き出した。 「――うん、好き、だよ……」  ふう、とオレンジの中に白く村瀬さんの吐息が霞む。その中にいつもの煙草の爽やかな香りが微かに混じっているように感じた。  急に隣の村瀬さんが立ち上がる。うーん、と背伸びをして、はっと短く息をついた。そして、膝を抱えて彼を見上げる俺を見下ろして、笑いかけながら、 「よしっ。帰るぞ、カズト」 「……帰る、って、どこへ?」 「お前、ずっとこんなに寒いところで夜更かしするんか? 取り敢えずついて来い」  いきなり村瀬さんが膝を抱えていた俺の右手を掴んだ。 「相変わらず冷たい手、しとるな」  ぐっ、と引っ張り上げられて寒さでかじかんだ足で立ち上がる。まだ状況の掴めない俺の右手を村瀬さんに引っ張られて、広場を後にした。
/110ページ

最初のコメントを投稿しよう!

765人が本棚に入れています
本棚に追加