君がくれた世界

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「そりゃあ、あるよ。大抵は親父との喧嘩だったな」  村瀬さんが当時を思い出したのか、愉しそうに笑いながら煙を吐き出す。 「お父さん、倒れたって……。大丈夫なの?」 「ああ、坂井さんから聞いたんか。大したことは無いよ。ただのぎっくり腰」  ――ぎっくり腰? 「まあ、ぐきっ、とやったんが風呂場で、足を滑らせて転んで頭を打ったからな。軽い脳振盪を起こしていたところを風呂に入りに来た宿泊客に騒がれて、大ごとになったんだ」  それでも、当たりどころが悪かったら本当に大ごとになっちゃうよ。 「お前、他にも坂井さんから何か聞いたじゃろ?」 「……村瀬さんが車掌を辞めるかも、って。お父さんが大変になったら旅館を継いで……」  ……結婚するかも、とは言えなかった。  村瀬さんは短くなった煙草を一吸いすると、ベストのポケットから取り出した携帯灰皿に突っ込んだ。そして、ふうー、とため息のような長い煙を吐いてから、 「……それを聞いて船に飛び乗ったんか?」  頷く代わりにうなだれた。なんて短絡的で考えなしに行動したんだろう。もし、そうなったとしても今日や明日に車掌の仕事を辞められるわけは無いのに。でも、あの時はなぜか、とにかく早く村瀬さんに会いたかったんだ……。 「俺の親父はな、婿養子なんだ。結婚する前は路面電車の運転士をしていたんだよ」  ゆっくりと村瀬さんの顔を見上げる。 「親父が運転士をしていた頃、電車の中で良く見かけた女性が気になって、ある日、勇気を出して声をかけた相手が俺のお袋だ。宮島の旅館の一人娘だったんだ。まあ、惚れたナントカで親父はひょんな事から旅館の主人になってしまった。古いばかりの旅館だけれどな。結構、贔屓の客もいてそれなりの老舗だから最初は苦労したみたいだ」 「そうなんだ」 「小さな頃、よく親父が宮島線の電車に乗せてくれたよ。広島市内まで路面電車で走っていろいろと教えてくれるんだ。親父は……、少なからず電車の仕事に未練があったのかもな」  そうか。小さな頃のその体験があったから、村瀬さんは路面電車の車掌になったんだ。 「……でも、確かに車掌も潮時かもな」  小さく呟いたその言葉を聞き逃さなかった。――それって、やっぱり……。
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