君がくれた世界

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「よう覚えとるのう。あれはな、随分前から会社に部署異動を打診されとるんだ」 「部署異動?」 「そう。内勤の事務方だ。まあ、そっちの方が給料も良くなるんだが、俺がまだ現場にいたかったからずっと慰留していたんだ。でも、そろそろ潮時かな、と」  鉄道会社を辞めて、俺の前からいなくなる訳じゃ無かったんだ……。  何もかもが分かってくると、急に張り詰めていた気持ちが解けてきた。はぁ、と大きく息をついた俺に、「今度はえらく気の抜けた顔じゃな」と、村瀬さんが頬にそっと指を這わせてきた。 「だって、信じられないよ。今まで何もかも上手く行った試しが無いのに、こんなに自分の都合良くいくなんて……」  そうか? と首を傾げた村瀬さんが、 「それは、お前が今までおった世界の話じゃろ? 今度は俺の世界をやるんだ。自分が中心の世界に君臨するんだから」  自分に都合がいいのは、当たり前だ――。  村瀬さんの優しい声が心の奥にストンと落ちた。 「カズト。お前、さっきから何だか見えづらそうじゃが、大丈夫か?」  心配そうな村瀬さんの声に、 「何だか、目がチカチカして村瀬さんの顔が見えない……」 「そりゃあ、強い光の見過ぎだな。大きな目を開けて太陽の光を見るからじゃ。ちょっと目を閉じておけ」  素直にその言葉に従う。瞳を閉じていても村瀬さんのくれた世界は明るくて暖かい。緩んできたのか、体に吹く風は先程の冷たさを無くしていた。時折、小鳥の鳴き声が聴こえる。それと、低い音は海の上を行く船の汽笛かな。  ピーィッ。 「村瀬さん。あれは何の音?」 「……ああ、鹿が鳴いたんじゃろ」  鹿って、あんなに高い声で鳴くんだ。  瞼を閉じて見えない村瀬さんが、また俺の右頬を包んだ。 「カズト……。もう一度聞きたい。言ってくれ」  彼の聞きたい事が手に取るように判る。それでも恥ずかしくて風に消されそうな声で、 「あなたの事が、好き……、です」  ふわり、と彼が微笑んだのが空気中に伝わる。小さな衣擦れがして左の頬も大きな手で包まれる。風とは違う、爽やかな香りがふぅ、と鼻先を掠めた。  ――あ、この香りは……。  それを思い出す前に、ゆっくりと温かで柔らかい感触が唇に押し当てられた。  こ、れは……。
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