君がくれた世界

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***  それから――。 「急に来るけえ、何の準備もしとらんぞ」  風呂から上半身裸で出てきた村瀬さんがタオルで髪を拭きながら俺に言った。通された村瀬さんのマンションの部屋は、想像していたよりも広くてきれいに整頓されていた。 「……本当にここに一人で暮らしているの?」  少し信じられなくて問いかけてみる。冷蔵庫から出した缶ビールで喉を潤す村瀬さんが、 「このマンションはな、親父の隠れ家じゃったんじゃ。いきなりお袋と結婚して旅館の入婿になったけえ、色々と息抜きする場所が必要じゃったんじゃろうな。俺が就職した時にここを使ってもええ、って貸してくれたんだ」 「だから、きれいに使っているんだね」 「お前なあ。俺は結構、きれい好きなんで。使ったものを置きっぱなし、散らかしっぱなしにしたら、容赦なく追い出すけえな」  ビールの缶で顔を指されて、にやりと笑われる。本当にこの人の笑顔は素敵だ。 「俺さ、村瀬さんから学んだことがあるよ」  村瀬さんの顔を見ながら、ふと、呟いた。缶の中のビールを飲み干しながら、ソファの隣に座った村瀬さんが、何だ? と聞いてくる。 「……それはね、人の表情」  飲み干した缶をテーブルの上に置いて、村瀬さんが少し驚いた表情をする。その顔を、じっと見つめて、 「今のは、驚いている顔」  自分の右腕をそっと伸ばす。伸ばした先の彼の頬に自然と指を這わせた。 「笑った顔や心配そうな顔、あくびしたり、ニヤニヤしていたり、物思いに耽ったり。でも、良く見たのは呆れている表情と怒られている時の顔かな」 「……それは、お前がしょうもないことばかりするからじゃろ」  ほら、また呆れた顔をする。  村瀬さんが頬を触っていた俺の手を取った。そして、その手を唇へ近づけて軽く指にキスをくれた。その仕草に、どきんっと胸の奥が跳ね上がった。 「でも、俺が一番好きなのは、村瀬さんが優しく微笑みかけてくれる顔……」  そう。 今、見せてくれている表情だよ。村瀬さん……。
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