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雪乃は紫翳の杯が空になっていると気付いたらしく、晟雅から離れ、紫翳の杯に瓶子を傾けながら、嬉しそうに目を細めた。
「これからの季節には、体も温まりますので、よろしければ冬霞様のお邸でも、お試しになられてみてくださいまし。少し、匂いが気になりますので、今はそれを消せないか、試しているところなのです」
「ほう、それはそれは」
両手で瓶子を持ち、雪乃が小鳥のように首を傾げて微笑む。
「うまくいきましたら、冬霞様にもお知らせさせてください」
「そうですね、私もぜひ──」
言葉が、出なかった。
(……待て。待て、今……何を言おうとした)
すうっ、と頭の奥の高揚感が冷めていく。
すぐ目の前の現実が、ぐんと遠ざかったような気さえした。
ぜひ教えてほしい、などと、どの口で言おうとしたのだろう。
未来の保証など何ひとつ持たず、故に猫目石を傷つけた身で、しゃあしゃあと嘘をつこうとでも?
最後には嘘になると分かっていても、約束が欲しいのだ。と、異世女が言っていた。
そのような無責任なことは出来ない。と、紫翳は言った。
その口で、確証の欠片もない未来を約束し、嘘にしようとした。
「紫翳? どうした、急に黙って」
「お口に合いませんでしたか?」
宇山兄妹が、突然なにも言わなくなった紫翳に、怪訝そうに声をかけてくる。
「……いや、」
何か、熱くて、そして冷たいものが、胸に込み上げてくる。
紫翳を拒まない温もりが、まるで当たり前のように向けられる優しさが、ひどく分不相応に思えてきて、箸を持つ手が震える。
「……すまん、雪乃。少し、外してくれるか?」
「はい、分かりました」
顔を伏せた紫翳の耳に、2人のやり取りが聞こえる。
労るような兄の声に、妹は無駄なことをなにも言わず、シュ‥‥と僅かな衣擦れだけを残して、室を退出していった。
ああ、また余計な心配をかけてしまった。
情けなさとみっともなさで、顔を上げられなくなる。
俯いたままで食器を膳に戻し、震えそうな吐息を、唇を噛んでこらえた。
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