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「うん……店先のショーケースには、ひな壇(だん)みたいな、赤い敷布があって。その上に、セルロイドの黒縁丸眼鏡、中段にはステンレスの角眼鏡、奥には鼈甲と竹の眼鏡が陳列されていて……」
ステンレスの眼鏡は今やほとんど出回っていない。
成分の一つのニッケルは、金属アレルギーを起こしやすい。
代わりにチタンやアルミニウムに切り替わったのだ。
ポリウレタンのハイセンスな形状の眼鏡も、橘眼鏡店では取り扱っていない。
だって、その頃には私達の家はもうなくなってしまっていたから。
父は惚れ惚れするように、更地を練り歩く。
彼も本当は見えていないはずだ。
元眼鏡で生計を立てていた人だ。
現実的な水晶体を通しての、視神経の複合的な運動部分はどうしても曲げることはできない。
……でも、私たちには見えているのだ。私への気遣いだとか、そういった甘い物でなく……あのふるぼけたフレームの眼鏡が私と父に見せている。
モノクロからカラーへフィルムに移し替えるように。瞬時に鮮やかに映し出していた。
しばらく父と私は『橘眼鏡店』を、私達の家を歩いていった。
家中を回りながら、父はひっそりとつぶやく。私にも聞こえないくらいに。
「……父ちゃん、ごめん。父ちゃんが一番に大切にしてた店、守れなかった」
私は聞こえないふりをする。理由はわからない。けど、踏み込んではいけない気がした。俯いた父から、涙が溢れていた。
やがて、夕日も暮れた頃、私達は店を後にした。
思い出を一旦心の中にしまい込んだ。
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