第2話「くわがた虫♀」

3/3
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ
 その後、第1に夫の死を悲しむことができなかった自分にとてつもない不快感を抱いた彼女は、突如猛烈な吐き気に襲われ、トイレへと駆け込んだ。  夫との仲が悪いわけではなかった。むしろ関係は良好で、息子を夫の母の元へ預けて二人きりで旅行へ行くことも何度かあった。家族に心配をかけまいと、いつも明るく自宅にいるときには仕事の愚痴は一切口にせず、息子とよく遊んでくれていたあの優しい夫はもういないのだ。 便器から顔を上げると壁に掛けてある家族の写真の中の夫と目が合った。 全国的にも有名な遊園地で撮った写真で、3人共笑顔でピースサインを突き出しながら写っていた。息子はダブルピースで屈託のない弾けるような笑顔で、横にいる夫も負けないくらい輝かしい笑顔を見せている。 その夫の写真を見つめていた稲架美の瞳からダムが決壊するが如く、熱い涙が溢れ出てきた。それと同時に再び吐き気が込み上げてきたため、便器に顔を差し出す。  数10分経っただろうか。吐き気と格闘していた稲架美はふらふらとした足取りで洗面所へと足を運ぶと、稲架美専用の赤いプラスチックでできたコップで口内に残った吐瀉物を洗い流した。  「兜に連絡しないと......」  時計を見ると時刻は午後8時過ぎを示していた。息子の桑方兜は夫の母親の元へ遊びに行くために1時間ほど前に家を出ており、現在はバスに乗っている頃だろうか。 息子の兜には携帯電話を持たせていたことを思い出し、リビングの机の上に置いてある携帯電話を取りに向かう。 彼女は携帯電話に登録されている電話帳の項目から「桑方兜」を選択するが、通話ボタンを押す寸前で手が止まった。 息子に何と説明すればいいのだろうか。直接的に父親の死を伝えてもいいのか。ショックでどうにかなってしまいやしないか......  様々な不安な思考が彼女の中で駆け巡る。しかし事実は伝えなければならないのだ。バスから降りて戻ってきてもらうしかない。稲架美は覚悟を決め、通話ボタンを押す。 コールが続く。なかなか電話に出ない。 バスに乗っているから出にくいのだろうか。 カチャッと音がし、携帯電話の画面は通話中の状態に変わる。待ち構えていた稲架美は喋りだす。 「もしもし兜? お母さんだけど今大丈夫? あのね...」 「もしもし」 携帯電話の向こうから聞こえてきた声は、男性の低い声だった。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!