春門と垂加神道

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  垂加神道が本格的に確立されてきたのは、徳川二代将軍『秀忠』の政治顧問をしていた『林羅山(はやしらざん)』の『理当心地神道』に始まり、吉川惟足(よしかわこれたり)による『吉川神道』が形成されます。 そしてその波は、鎌倉時代から続く『伊勢神道』も巻き込み、『逆菊』でも少し登場した『度会家』の『度会延佳(のぶよし)』が、従来の『伊勢神道』に儒教を取り入れ再編し、『後期伊勢神道』としての教えを確立させますが、根本的な教えが変わってくる事から、原典である『伊勢神道』とは区別され、『後期伊勢神道』と呼ばれるようになります。 そして、儒家神道の集大成と言える『垂加(すいか)神道』が、儒学者『山崎闇斎』により生み出されます。 前述した『後期伊勢神道』が『伊勢神道』と区別されるのは、ここに答えがあります。 『垂加神道』は『天人唯一ノ伝(てんじんゆいいつのでん)』という、人の心の中には神が宿るため、『神』と『人』は理(ことわり)を通じて『一体』であり、その中で最も大切な心は『敬(つつしみ)』であると唱えられています。 …前半だけで解釈すれば、人間はみな自分の心の中に神を宿しており、人と神は同等な存在であるという考えになります。 なので、神を仏より高い地位に置き、崇める存在としている『伊勢神道』が、これらの教えを交えた『後期伊勢神道』と区別される理由が成立されます。  
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