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そういう意味では、伊勢神道派の菊和と、垂加神道派の春門は、本来『相容れない立場』なのですが、お互い『神道』とは八百万…総てのものに於いて魂が宿り平等であり敬う存在であり、神はあくまでも、人が迷い悩んだ時に支えになるくらいで丁度いい。
崇めるだの、人と神は同等だなど言うのは夢想に過ぎない陳腐なものだと考えていたので、各々の門派から追い出される事になるわけです。
尚松に関しても同じです。
神を崇めて、腹が肥え人が豊かになるのか。
日々汗を流し働き、そうして得たものに感謝する。そこに神があり信仰がある。と言う考えが異端と判断され、垂加神道を追われます。
結局三人は神様どうこうより、人が生きる上で信仰は尊いものではなく、心の支えであり、自分達はその人の心が迷いに閉ざされた時、道標、居場所となる存在であると言う、独自の思想を掲げ、市井の人の寄りどころとして、万事(よろずごと)を担う立場として存在する事を選びます。
ただ、やはり其処には市井の人が求める『神』が必要と言うわけで、社を構え、迷った時はいつでもおいでと言う形をとっていると言うわけです。
春門は菊和の自由さを羨み、菊和は春門の行いを敬い、教えは違えど共に仲良くやっていこうと言う形に収まります。
故に、時たま市井の女性から妙な勘ぐりを受けるらしいですが、そこは2人とも全面的に否定してます(笑)
では、私もそろそろ息切れて参りましたので、色々脱線しましたが、これにて垂加神道については終幕とさせていただきます。
それでは、最終編『風花梅月』をお楽しみ下さい(礼)
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