第1章  冬彦

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 日本を捨てた最初の一年は、人でさえない暮らしだった。  アメリカ軍の追手を巻き、治安の乱れた地にはびこる魔窟に逃げ込んで暮らした。それは暴力と犯罪の腐臭漂う、腐りの日々。  その泥沼に沈まなかったのは、ひたすら最後に抱いた怜の身体の記憶があったればこそ。たった一つの命綱だった。  やがて、幸運の女神の前髪を掴む時が訪れた。戦前に交渉の在った中国華僑に拾われたのだ。その老人の元で、彼の家業を手伝ったのが、再び彼を人に戻した。  全てをかけて、闘い抜いた。口に出来ないことも、法を犯す擦れ擦れの事も。浮かび上がるためには何でもした。  全ては、怜のもとに還るため。  その甲斐あって彼の始めた事業は順調に軌道に乗り、五年後には日本に何とか戻ってきた。横浜に、貿易会社の小さなオフィスを開いたのだ。  それは彼の執念の勝利。怜のもとに帰るための免罪符を手に入れる為の必死の闘いだった。  その冬彦は、日本に戻ると直ぐに妻の行方を徹底的に捜した。我が身の危険など構ってはいられないほど、その愛は彼のたった一つの真実だった。  だが、行き着いた真実は過酷だった。すでに怜は、死んでいたのだ。  鉄道の事故に巻込まれた怜の死。  それは冬彦が日本を後にして、半年後の出来事だった。  冬彦は泣いた。  号泣した。命を懸けた愛が涙に溶けて、どこか遠いところへ流れ去ってしまう。心が冷たく凍るまで、その涙は止まらなかった。  そして彼は。涙など流しもしない、冷徹で非常な男に生まれ変わった。彼に残ったものは貿易の仕事だけ。それからは、ただひたすら仕事に生きて来た。  「子供が生まれたら、春彦と名を付けてくれ」・・それは胸の奥に閉じ込めて思い出すことさえ禁じてきた、彼が怜に与えた最後の言葉だ。  流れ去った涙と共に、永遠に閉じ込めた愛の記憶。  仕事に生きると決めた日から、冷酷非常な辣腕の実業家として恐れられる男になっていった彼。今ではかつての貿易会社を、日本各地にオフィスを持つ複合企業の白河コーポレーションに育て上げた。  起業した頃はまだ名前を面に出すのは危険だ思っていたから、東印の名は会社に付けなかった。代りに母方の姓を使って、白河コーポレーションと名付けて、厳しい企業戦争に勝ち抜いてきた。  だから白河コーポレーションのオーナーが東印冬彦だと知らない者は、意外に多い。  冬彦は、管理の手間がかかる自社ビルが嫌いだ。だから費用が多少掛かろとも、新しくて外見の美しい貸しビルを選んでオフィスを開いてきた。  数年前に東京オフィスを開いた時も、ビルを囲むローズガーデンに魅かれて、今のビルに決めた。  十二階建のビルを、丸ごと借りている。  建物は三条不動産の持ちビルで、この会社の大きな特徴の一つが、どの持ちビルも美しい庭に囲まれている事だった。  起業してまだ十年。新しい会社だったが、管理が行き届いていると評判が良かった。会社のコンセプトは、『癒しの都市設計』。  毎年、花の頃になると白い香りの良いバラの花が咲き乱れ、そのビルを囲む庭に冬彦を誘い込む。遠くてもう手が届かない懐かしい思い出の中へと、連れ去るのだ。  長い間。思い出すことさえ自分に禁じて来た、それは怜の肌のようで。白い温かみを持ったそのバラの花弁と、馥郁とした優しい香りが彼を苦しめる。  その花はやがて秋になると赤い実になって、庭を彩るのだ。  ラベンダーやローズマリー、ミント等々が植えられている、良い香りで満ち溢れた庭に居ると、忘れていた怜との懐かしい思い出が不意に蘇って。  彼の心を締め付けるのに・・それでも足を運んでしまう自分を、そして珍しく感傷に浸ってしまう自分を押さえきれず・・ただ、苦しい愛の想い出を持て余してしまう。
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