第2話  春彦 の章

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 冬のさなかの軽井沢は、雪が降り積もっていた。  三条はマントを巻き付けて、寒さの中を東印怜を訪ねてみた。別荘の表で悲鳴を聞いたのは、その時だった。  彼は慌てて別荘に駆け込み、思いもよらない惨状を発見した。怜があの不愉快な官憲を懐剣で刺し殺して、震えていたのだ。  衣服の乱れから、暴行されそうになって刺したのだと一目で判った。  三条は東印怜を守ってやると、咄嗟に決めた。  それにこの事件は表ざたになれば、妊娠している彼女も危険な立場に立たされる。どんな理由があろうとも殺人は重罪だ、とても切迫した事態だった。  官憲の死体を雪の降り積もった山林に埋めて戻ると、室内を清掃した。中野の兵学校で教官だった彼には、痕跡も残さず事件を葬りさるなど容易な作業だった。  「後の事は、安心して僕に任せて欲しい」、静な声で説得した。  事件を隠ぺいするには、関係した人間の安定した精神状態は不可欠。諜報活動の常識だ。  まず怜と女中を連れて牧場に戻る事件現場から遠ざける。次は東印家の紋章が入った指輪を怜から取り上げ、東京へむかった。それは事件が発覚した時の予防措置、東印怜の死を偽装するのだ。  どうやって彼女を死んだ事にしようかと思案している時、運命が味方した。  列車の脱線事故が起こり、死傷者が多く出たのだ。ニュースになったほどの事故だ、役に立つかもしれない。  遺体安置所に収納された遺体の中から、怜に年恰好の似ている女を探し出すと、指に東印家の紋章を刻み込んだ指輪を嵌めた。それから、その女の身許を証明する物を全て持ち去った。  蓼科に戻る前にその女の死体を使い、偽の戸籍を手に入れるのだ。そのためには、その死体を東印怜だと証明する人物が必要だった。  怜が別荘から連れて来た女中から聞いた、終戦まで冬彦に仕えていた厩番だったという男を探し出せたのは運がよかった。その男に証言させることが出来たおかげで、死体が東印怜だと証明されたのだ。(入れ替えに使った死体の名前は、まり子と言った。怜には気の毒だが、進駐軍を相手に売春婦をしていた女だった)  そんな理由から。難なく偽の戸籍を手に入れた三条は、その男を連れて蓼科の牧場に帰って来ることが出来たのだ。  その男は女中と抱き合って再会を喜び、怜の姿を見て感激の涙を流した。  全てが新しいサイクルで動き始めたのだ。  やがて怜は、まり子という新しい名で無事に男の子を出産。冬彦の残した言葉通りに、春彦と名付けた。  しかし怜は、難産だった。  獣医も医者の端くれだと言って、三条は出産に立ち会ったが。産後の肥立ちの悪い怜の為に懸命に助力している内に、怜に惚れている事に気付いた。歳が違いすぎる事は十分承知だったが、それでも怜と子供の面倒を見たいと思ったのだ。  怜に結婚を申し込んだ彼は、その時初めて、冬彦が生きている事を怜に打ち明けられた。驚きの真実だった。陸軍のどの部署に冬彦が籍を置いていたか三条には解らないが、妻と東印の家を守る為に身を隠さねばならなかったほどだから、軍の諜報活動を担っていたのだろう。だいたいの事情は、想像がつく。  怜はその他にも、冬彦が残していった東印家の財産を見せてくれた。
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