第2章  春彦

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 <昭和二十年・初冬>  初冬の軽井沢には、紅葉が終わり雪がちらついていた。  敗戦から四か月。男は四十歳を超えた今になって、かつては彼の人生そのものだった軍人の人生を、捨てた。  名前も名誉ある家名も捨てた彼は。長野の蓼科に牧場を買って、逃げるように東京から移り住んだ。今は獣医師の三条を名乗っている。  今日は久しぶりに竹馬の友を訪ねて軽井沢まで出て来たが、敗戦国になった日本の治安は酷く不安定で危なかった。  悲しいことに多くの国民が飢えに苦しみ、理不尽な色々の謀略が横行している。悪事が其処かしこで行われて居り、守る者が居なくなった婦女子への暴行など、日常茶飯事だった。  官憲といえども、信用出来ない。  こんな日本を作る為に命を懸けて戦ったのでは無いと、捨てた筈の軍人としての自分が哀しかった。  幼友達もまた、過去を捨てて農場を始めていた。昔、共に子供時代を過ごした思い出の地での、再出発だった。  牛馬の事で相談があると言われて出て来たが、途中で不愉快な警察官史と出会い、我慢できずについ脅してしまった。  友に迷惑が掛からないかと心配になって話した所、問題の多い男だと言う。  この近くに住んでいるらしい、若い未亡人にも手を出そうとしていると言うから、少し気にな った。  未亡人の名は東印怜。  元華族の令嬢で、古い別荘に手伝いの女中と二人で、一緒に住んでいると言う。  彼には東印と言う名に、思い当たる記憶があった。  彼が中野の兵学校で教えた中で、擢ん出て優秀な男がいた。  名門の家柄で、裕福な家の生まれ。  容姿の整ったその男の名前を、思い出していた。  東印冬彦と言った筈だ。  東印と言うのは珍しい名前だから、彼の妻かも知れないと思った。  友人が野菜を届けに行くと言うから、一緒に付いて行って、その女に会った。三条は彼女の気品に溢れた美しさに驚いたが、女は夫の子供を身籠っていると言う。  まだ十八歳だと聞いて、放って置けなくなった。  三条はもう四十歳を超えている。  妻も無い上に、幼い頃に罹った病気のせいで子供の出来ない身体だったから、こんなに若い妻を残して世を去り、自分の子供の事も知らないで人生を終わった冬彦の事を哀れに思った。  友には「また来る」、と言って牧場に戻ったが、やはり彼女の事が気掛りだったから。二か月後、また軽井沢に来てしまった
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