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初夏の日差しが眩しい蓼科の高原。
その中を白馬を駆って、白いシャツの女がギャロップで隣の牧場の柵の中に戻ってくる。
東印冬彦はリゾートホテルの貴賓室の窓から、なんとなく見ていた。
仕事にも人生にも、そして生きる事にも疲れた。此処に来てから一週間になるが、何をする気も起こらない気だるさの中にいる。
今年で四十六歳になった。
終戦から既に二十一年が過ぎた。昭和も四十一年になり、あの戦争の日々は遠い昔になりつつある。
妻も子も無く、ただ仕事に生きて来た。
だが、全てに飽きた。気だるい倦怠感をどうしようもなく持て余している。
終戦のあの日を思い出すことも、今ではそれほど多くはなくなった。
まだ二十五歳の青年将校だった彼には、十八歳の妻が居た。落ちぶれた華族の令嬢で、名前は怜。彼の許に十四歳で嫁いできた娘だ。
子どもの頃からの許婚。嫁いできた時はまだほんの少女だったから、十六歳になるまで男女の契は無かったが、それでもずっと大切に守っていた。
初めて怜と愛を交わした日の事は忘れない。あの戦争が激化して職業軍人だった彼は忙しかった。そんな中で夕食を一緒にすることも少なかったが、それでも時々は食事が済んだ後で、一緒に書斎で過ごしたものだ。
あの日も椅子に腰かけた彼の膝に乗って甘えている怜を抱き締めて、彼は怜に言ったのだ。
「今夜から、僕は君とずっと一緒に眠りたい。君はどうなの」
怜は頬を染めると、彼の胸に顔を隠して恥かしそうに囁いた。
「冬彦さんが望んで下さるなら・・・いいわ」
十六歳の少女が、女になることを覚悟した瞬間だった。
それからの終戦までの二年間、彼はカノジョを熱く、そして強く愛した。早くに両親を亡くして孤独だった冬彦にとって、玲は唯一の大切な愛の夢だった。
そして、ついに日本が敗れた終戦のあの日。
中野の兵学校の出身だった彼は、身を隠さねばならない立場に追い詰められていた。断腸の思いで、玲を捨てねばならぬ冬彦。
妻を護るために東印の家を捨てると決めた最後の夜、彼は激しく奪いつくすように玲を愛した。
「僕の子を産め。そして待っているんだ」
「僕は、きっと戻ってくる」
裸の彼女を抱きしめて、きつく耳元で言いつけたあの夜の彼。
用意出来る限りの金と貴金属や宝石類を全て怜に残し、身一つで家を後にして姿を隠した。進駐軍に捕まる訳にはいかない、厳しい立場だったのだ。
彼は語学が堪能な経歴を、その後の再生を果たす武器にした。海外に逃れ出た彼は、やがて貿易の仕事に就いたのだ。そして貿易会社を起こすと一日も早く妻の許に帰る為に、働いた。名を捨て、名誉ある家系を捨て、財産を捨てての裸一貫。それは身も名前も、命さえ惜しまない闘いの日々だった。修羅場を何度も潜った。命を的にした事も、幾度もある。
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