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それは、あの調印式の前日。
冬彦に、不意におこった出来事だった。
春彦が、三条が冬彦にあてて死の間際に書いた手紙を持って。一人で訪ねてきたのだ。冬彦と春彦は、会った瞬間に互いに理解しあえた。同じ種族だと認識しもしたし、共鳴もした。不思議な体験だった!
互いに交わした短い会話の中で。春彦は大学に進学したが、そのまま休学してアメリカに留学してしまったと語った。
「日本は狭いと思ったから、広い所に行ってみたかった」、と言って笑ったのだ。
初めて正面から見る息子の姿に、驚きは隠せない。声も、顔も!本当に自分にそっくりだ。
彼は母が自分を見るとき、時々だが遠くをみるような眼になって、涙を流すのは何故かと思っていたが、冬彦に会って分かったと言った。
「母が自分に恋しているのじゃないかと不安だったけど、違うと解って良かった」、そう言って嬉しそうに笑う、まだ年若い息子。
これで三条の父との約束を果たしたから、心置きなくアメリカに帰れるという息子。
「母をどうか宜しくお願いします」、微笑んだ笑顔が少し寂しそうだった。
戦争と言う運命が、冬彦から無情にも取り上げたもの。それは怜の愛と、息子と過ごせたはずの時間だった。春彦の爽やかさの中に、大切に守られ、愛されて育った少年の姿を見たと思うと複雑だった。それはこれまでに感じた事のない焦燥感か。いや、嫉妬に近い!
冬彦は。春彦の成長を見れなかった自分が、とても悔しかったのだ。
さて。調印式の日に、話を戻そう
調印式を終えると、冬彦の仕返しがやはり怖い怜は、蓼科へ逃げた。まさか、蓼科の牧場が全ての始まりだとは、思っても見なかったのだ。
冬彦の、あのストイックな性格が、そんなに簡単に変わるものだとはとても思えなかったから。同じ東京に居るのは怖すぎたのだ。
しかも牧場を管理してもっている夫婦と娘が、たまたま家族旅行に行っていたから。厩舎の手伝いに雇っているアルバイトが帰ってしまうと、夜は一人になってしまった。
怜はしっかりと戸締りをすると、恐怖を振りきるように自分を鼓舞すると。早めに眠ることにして、二階にある寝室へと階段を上っていった。
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