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優しい風が吹く丘で(年賀状2022年)
「風が気持ちいいな」
頬を撫でていった風に、そんなつぶやきがこぼれ落ちる。
いつもは海からの潮風が痛いくらいに強く吹いている崖の上だが、今日は髪を軽くなぶる程度だ。
昼下がりの柔らかな日差しに照らされながら心地よい風の中にいると、自然と穏やかな気分になる。
草原の上を魔王の愛犬ハチコウが蝶を追いかけて、ぴょんぴょん飛び跳ねる姿も平和そのものだ。
――ときどき、これは長い夢なのでは、と思う時がある。
目が覚めると本当は今も魔族や魔物に剣を振るい、血にまみれ、魔王を倒さんと道なき道をゆく旅路の途中なのではと。
この穏やかな日常は幻で、自分は長い長い夢の中にいるのではないかと。
そんな風にふと不安が頭をもたげる瞬間がある。
それはこんな風景のなかにいるときにこそ訪れる陰りだ。
雲が流れ、鮮やかだった草原の緑に影が落ちる。
その暗さに視線が吸い寄せられそうになったとき、――ずしりと右肩に圧がかかった。
とたん内に向けられていた意識が霧散し、現実に焦点が合う。
俺は右肩の「圧」に文句を言った。
「重い」
「……」
「おい、もたれるな。人を椅子の背にするな。自立しろ」
「……」
草原に座る俺の右肩に、同じく腰を下ろしていた魔王の背中が伸し掛かかり、存在を主張してくる。普通に重いしうざったい。
手には食べかけの麩菓子が握られている。
ちなみにそれはハチコウの食べ残しだ。毎度思うが犬に麩菓子など与えて大丈夫なのだろうか。
ちらりとハチコウに目をやると、相変わらず元気に蝶と戯れている。……大丈夫そうだ。
「おーい無視するな」
「……おまえこそよそ見するな」
「……は?」
「風は災いももたらす」
しばらく俺の苦言をスルーしていた魔王が、いつもとは異なる低く落ち着いた口調で返してきた。
「ときに荒れ、ときに凪、そのときどきで様相を変える」
「……」
「与えもするが、牙を剥き、奪いもする」
「……いきなりどーした。おまえそーゆーこと言うキャラじゃないだろ。なんだよ。へんなもんでも食ったか?」
魔王らしくない。
「キャラとはなんだ。我は我だ」
「あーまぁ…うん」
「そなたが知ろうとせぬだけだ」
「――」
……そうなんだろうか。
右肩の重みに改めて意識を向ける。
重いだけではなく、――人の温もりが伝わってきた。
呼吸のリズムで肩が上下するのをなんだか不思議な気持ちで眺める。
(生きてる)
生きて呼吸をして温かく、――手には麩菓子を持っているかつての魔王。
これは、現実。
これが、現実。
今、俺が生きている世界。
「……そっか」
いつのまにか雲は流れ、また草原には青々とした色彩が広がっている。
眩しいくらいに光が溢れた光景に目を細めた。
「知ってるつもりで知らないこと、他にもあるかもな」
おまえも俺も。
「知らぬなら、知ればよい」
どんな運命の悪戯か、こうやって共にあるのだから。
言葉にしないそんな想いが温もりと一緒に伝わってきた気がした。
「……そうだな」
俺は空を見上げて珍しく素直にそう返す。
これから先、どんな未来が待っていたとしても、今日の優しい風を忘れないでいようと思った。
そして、なんだか悔しかったので魔王の最新情報を口にする。
俺だって知らないばかりではないのだ。
「おまえ最近、苺フレーバーの麩菓子にはまってるだろ」
「…………あれはよい。なかなか美味だ」
真面目くさった顔で重々しく頷く魔王は、いつもの魔王で。
俺はなんとなくほっとしたのである。
END
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