第1章

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 教室の扉を開けると、床は水浸しだった。よく見ると水槽が床に転がり、金魚が跳ねている。 「これ、掃除しておいてくれるよね?亜利沙ちゃん」 雪見の声はやけに高い。彼女は亜利沙を囲む集団に紛れてその姿はよく見えないが、にっこりと微笑む顔が目に浮かぶ。 「やっておけよな」 雪見とは違う声が言う。ドッ、と嫌な音がした。小さく呻き声が聞こえる。直後にバラバラと席につき始めたクラスメイトたちは、何事もなかったかのように談笑を始める。残された亜利沙は、腹を抱えてうずくまっている。しかし微かに顔を上げ、前に長く垂れた髪の間から目を覗かせた。  その目は確かに私を捕らえた。ドクンと心臓が鳴る。亜利沙とは思えない絶望に満ちた目で、私を見ていた。  亜利沙は再び目を伏せると、ふらっと立ち上がって私に迫ってくる。私は呼吸が止まり、金縛りに遭ったように動けなくなった。どうしよう、何か言うべきか?ここで?雪見が見ているところで?  パニックで固まったまま、亜利沙は目の前に来ていた。どうしよう、どうしようどうしよう。それだけが忙しく頭を駆け巡るうち、ついに亜利沙は私の横をすり抜けていった。  ――え?  頭は何かが切れたように真っ白になった。視界の端で、亜利沙が廊下に干してある雑巾を手に取ったのがわかった。  何もなかった。何も。拍子抜けしている自分がいる。少し安堵している自分もいる。しかし、心臓だけは気分悪くドッドッドッドッと脈打っていた。 再び私の横をすり抜けて教室に入った亜利沙は、静かにバケツの中に金魚を入れ始めた。その肩は震えている。泣いているのかはわからない。やがて震えは二の腕、手首と伝っていく。そして、それが指先まで来たとき、彼女は震えを堪えるように力強く手を握った。 その瞬間、私はギクリとした。彼女の拳からは、赤い尾が見える。彼女はゴミを入れるようにバケツの中にポトンとそれを落とす。そして、2、3回腕を振る。パラパラッと小さな破片が、散るようにバケツの中へ落ちていった。
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