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◆◇◆◇
極寒の屋根の上にいたせいで、体は芯まで冷え切っていた。
『風呂入って温まれ』という奴の言葉に反論する気にもなれず、渋々入浴する。
熱い湯が凍った体を芯まで温め、あまりの気持ちよさに、思わず大きく息を吐いた。
「風呂場で吐息なんて爺だな」
脱衣所から奴の声がして、途端に気分は急降下する。
「ここにまでついてくるのか」
嫌悪感も顕に言うと、鼻で笑われた。
「こんな所まで見張らねえと、脱走の常習犯がまた懲りずに逃げんだろうが」
奴がそう告げる戸の向こうで、パタンと不思議な音がする。
どこか馴染みのある音だが、すぐには思い出せない。
「なんの音だ?」
「本を閉じる音」
戸の向こうに尋ねれば、簡潔な答えが返る。
どうやら、俺がさっきまで懐に仕舞い込んでいた本を拾って遊んでいるらしい。
「大して面白くもなかろうに」
確か、持ち出したのは論文だったか。
そんなものを子供が読んで楽しい筈がない。
だが、次に返された言葉は意外なものだった。
「ヤシオ、お前、オレが嫌いだろ」
藪から棒に、しかも笑いを含んだ声で問われ、思わず息を呑む。
「一人で静かに過ごしたいのに、煩せえ奴だって。他の監視役にも、チョロチョロついてこられて鬱陶しいと思うから脱走すんだろ」
ズバリ言い当てられ、ほんの一瞬怯むが、気を取り直して、ため息を吐きつつ頷く。
「そうだ。わかっているのなら、なんでついてくる?」
ずっと抱えていた苛立ちを、まさかコイツが言い当てるとは思いもしなかった。
「他の監視役は、文字通りそれが仕事だから、しゃーないだろ」
あっけらかんと正論を言われては、ぐうの音も出ない。
「仕事して稼がねえと、おまんまが食えないから、クソ生意気なガキを四六時中見張る必要があんだ。お前もわかってんだろ」
「ふん。だが、お前はどうなんだ。他の監視役とは役回りが随分と違うじゃないか。第一……いや、いい」
――何故、子供一人でこんな山奥に来て、稼ぐ必要がある?
そう訊ねようとして、あまりの下世話さに止め、口を閉ざしたところ、またパタリと本の音が聞こえた。
(コイツ、本を楽器か玩具と勘違いしてないか?)
少しばかり呆れていたところ、ふいに戸の向こうから奴の神妙な声が上がる。
「オレはな、お前の友達になりに来たんだ」
奴の告白を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、俺と似ているらしいこの屋敷の持ち主だった。――ここに派遣される人間は、あの男が手配した者達であり、俺をここに幽閉したのもまた、あの男だったから。
脳裏に憎らしいあの男の姿が過り、カッと頭に血が上る。
「お前、二度と俺の部屋に来るな。あの男に何を命令されたか知らないが、義理でできた友などいらな――」
カッとなった勢いで湯船から立ち上がり、戸に向かって声を張り上げたが、最後まで言えなかった。
頭が急速に霞がかり、脱力する。それから後は、真っ白だ。
気付けば、俺は自室のベッドの中にいた。
白い漆喰の天井と壁。鉄格子の嵌った窓。目覚めた時に真っ先に見える、あまりにも殺風景な光景。
窓の外は暗く、これが薄暮なのか夜明けなのかも不明だ。
手探りで照明を点けて壁時計を確認すると、針は五時を指していた。やはり、早朝なのか夕方なのかはっきりしない。
(奴がいないから夕方か)
ここ数日、早朝に目覚めると、床には布団が敷かれていて、中で奴が高イビキで寝ていた。
それがないということは、まだ夕方なのかもしれない。
(確か、最後にいたのは風呂場だった。湯あたりしたのか)
入浴したのは午後三時すぎ。それならば、夕方でもおかしくはない。
(そのわりに、奴がいない。ああ、そうか)
意識を失う直前に、部屋に来るなと拒んだのを忘れていた。
普段となんら変わらない、自分一人だけの空間。
この数日、ずっと望んでいたこと。
なのにどうしてか、やたらと静かに感じた。
(人が一人いないだけで、こんなにも部屋は殺風景になるのか)
ベッド、机、椅子、テーブル、鏡、外套掛け、本棚。
たったそれだけしか調度品がないものだから、余計に人一人の存在感が増していたのだろう。
(……寂しいとは、こういう感覚だったな)
久しく忘れていた感覚に戸惑った。
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