850人が本棚に入れています
本棚に追加
/155ページ
「きみ、名前は?」
「沙己……です。瀬尾、沙己」
もごもごと返事をする。
「サキ、感謝する。この中には、とても重要なものが入っていた。礼を言う。きみこそ、クルアーンのイフラークを体現する者だ。私に大事なものを教えてくれて、ありがとう」
「クルアーン?」
「ムハンマドの教えだ。私たちムスリムは、それにのっとり生活している」
ああ、コーランのことか、と沙己は納得した。それにしても、体現してるってなんだろう。
そう思っている間も、男は好ましいものを見る目付きで沙己を見つめている。
「いえ、そんな……。大げさですよ」
「その謙虚なところがますます素晴らしい! まさに善い行いをする者だ!」
話が長そうだ。早くレジに戻らねば、相田に迷惑がかかる。
「これからは気を付けてください。じゃあ」
そう言って去ろうとすると、がっしりと手をつかまれた。
「サキ、この礼がしたい。よかったらまた会ってほしい。ごちそうする」
「えっ」
見ず知らずの忘れ物を届けただけの客に、こんなに感動されると思わなかったが、ごちそうという単語に釣られそうになった。コンビニバイト生活になってから、ろくなものを食べていないし、今月もあと一週間、どうやって食いつなごうかと思っていたところだったからだ。
だが、いくらかっこいいといっても、相手は今日はじめて会った外国人だ。人身売買組織などに繋がっていたら怖ろしい。そんな都市伝説は、いくらでも聞く。
「これは私のモバイルフォンのナンバーとアドレスだ。その気になったら、いつでも連絡してほしい」
そう言って、金色に光る名刺を渡された。硬い素材で出来ており、名前や電話番号が流れるようなアラビア文字と、ブロック体のローマ字で薄く彫られている。
(もしかしてこれ、金で出来てるんじゃないか!?)
受け取った、少しちいさい名刺に目が釘付けになる。持った質感といい冷たさといい、金ではないかという疑問が湧く。この人は途方もないお金持ちなのかもしれない、という考えと、そんなうまい話があるはずがないという常識の間で気持ちが揺れる。
「ええと……、考えさせてください!」
それだけ言って、沙己はもと来た道を逃げるように駆け戻った。
最初のコメントを投稿しよう!