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「入社説明の初出勤の日を思い出してください。社長は私にこう言ったんです。『独りで抱えるな、なにかあったらすぐに言え、迷惑になるとか考えるな、むしろかけろ』って。あの時の衝撃は忘れられません。だって……私が不安でどうしようもない時に、昔の爺ちゃんと同じこと言ってくれる人がいるなんて思いもしなかったから」
ああ、そうか。
さっき、お爺さんが言った言葉を聞いた時、どこかで聞いたことがあるなと思ったのは、社長も同じことを言ってたからなんだ。
「あの日から社長のことが気になりだして、研修で一緒にいる時間が長くなってから、どんどん気持ちが大きくなってしまったんです。本当は……ずっと内緒にしてるつもりでした。でも、水渦さんと結婚しちゃうのかなって思ったら黙っていられなくなってしまって……ごめんなさい、社長を困らせるつもりはなかったのに、」
真っ直ぐに社長の目を見るユリちゃんは、少女の可愛らしさが息を潜め、どこか大人びて美しかった。
テーブルの上では大福がアンモニャイトを(アンモニャイととは猫がアンモナイトのように真ん丸に寝る姿のコトだ!)解き放ち、ゴロンとお腹を出したまま仰向けで熟睡中。
無言の2人の間で、ぷーぷーと大福の寝息だけが聞こえていた。
社長はなにか言おうとして、だけど言葉にすることはなくて、ただユリちゃんを見詰めていた。
それは僕の知らない表情だった。
まだそう長くはない付き合いだけど、ユリちゃんと同じ研修中である僕も社長と過ごす時間は長い。
年に数回しか会えない学生時代の友達よりも、濃い時間を過ごしているのではないだろうか?
社長は表情豊かな人だ。
裏表がなく陽気で豪快で大抵毎日ふざけている。
座学中も、OJTで現場にいる時も、一緒にランチをする時も、いつだってイタズラ小僧のような表情をしているのだ。
それなのに、今はまるで違って見える。
なんて言うか……あの表情は、僕が部屋で大福と遊んでいる時、ふと鏡に映った時の自分に似ているのだ。
そう、あれは……愛おしい者を見る目。
「ユリ、」
長い沈黙のあと、社長の低い声がその名前を呼んだ。
鋼のような太い腕が、眠る幽霊猫の上で伸び、ユリちゃんの髪にそっと触れる。
その瞬間、ビクッと身体を震わせて、潤んだ目で社長を見る彼女の頬は、瞬く間にバラ色に染まっていった。
長い黒髪が、格闘家特有の殴りダコのできた手指の間をサラサラとすり抜けていく。
その大きな手を裏にして、ゴツ硬い甲でユリちゃんの頬を撫ぜた。
途端、彼女の猫の仔のような大きな瞳に、水晶の涙が溜まっていく。
瞬き一つで雫が零れ落ちそうで、それに気付いた社長が落ちる前に指で拭った。
「ユリ、おまえはもう独りじゃないよ」
そう言った社長の声は、静かで、優しくて、そして力強かった。
「しゃ、社長……?私……私は……」
独りじゃない____と言った社長の言葉は、部下に対してのものなのか、それとも1人の女性に向けたものなのか。
本当の気持ちが知りたい、だけど怖くて聞くことができない。
不安な想いでいっぱいであろうユリちゃんは、懸命に涙を堪えるあまり唇が震えていた。
社長はそんなユリちゃんの唇を優しく指でなぞる。
「大丈夫だ、泣きたいなら好きなだけ泣け。ガマンするな」
ガマンするな____この一言でユリちゃんは、堰を切ったようにに泣き出した。
「私……!私……!ごめんなさい、やっぱりダメ……!社長のことが好きで好きでたまらないの!」
泣きながら気持ちを解放したユリちゃんは、唇に触れる社長の指を両手で包み顔を伏せ、細い肩を小さく丸め震えていた。
「顔隠すな、こっち向け。おまえの気持ちはよくわかった。今度は今の俺の気持ちを聞いてくれ。俺は____っと、ユリ、ちょっとだけ待ってろ。すぐに済むからな」
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