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五月に入り、出産予定日まであと一ヶ月というところまできたある日、私の身体に異変が起こった。
お腹に痛みが出て、その直後に身体の中で割れる感覚が伝わった。ナースコールを押して助産師さんを呼ぶと破水したことを告げられて、分娩室へと運ばれることになった。
物々しい雰囲気の中、分娩室まで運ばれていく途中で、私の意識は途絶えた。
そして次に意識が戻ったと頭の中で思った時、私は何故か真っ暗闇の空間の中にいた。それが、夢か現か分からなかった。
やがて暗闇の中に一つの小さな光を見出だした私は、その光が射す方向を目指して歩き始めた。光が段々大きく近くなってきて、それはやがて自分を包み込むようにして輝きを放った。
あまりの眩さに閉じていた瞳をゆっくり開けると、目の前には富士山の頂上から見えるあの美しい景色が広がっていた。
「トシ」
突然、隣りからとてもよく知っている懐かしい声が聞こえてきた。静かで低い、でも優しい声。呼ばれる度に嬉しくて切なくて、愛しかった声。
私のことをトシと呼ぶ人は、あの人しかいない。
「雅司さん……」
泣きそうになりながら絞り出すように呟いて声のする方を向くと、そこには目を細めて静かに笑うあの人の姿があった。
「ごめんなさい。私、あなたとの約束を守れなかった」
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