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「アイツの事を忘れる筈が無い。アイツは・・・、僕の弟だ。自分の弟を忘れるような冷たい兄がいるかい?」と藤村はマグカップを両手で包み込むように持った。コーヒーの温かさが陶器のマグカップを通して両手に伝わって来る。
「そうよね・・・。兄弟が忘れるはずないよね・・・」と凛子は言うと、湯気の立ち上るコーヒーを一口啜った。
「似ないね・・・。コーヒーの味は・・・」と凛子が言う。
藤村は『フッ』と鼻で笑うと、「そこは兄弟でもダメだ・・・。同じコーヒー豆を使っても、同じように淹れても、アイツの淹れたコーヒーにはかなわない。アイツのコーヒーは天下一品だよ」と自慢気に言った。
「そうよ・・・。だって、あれは私だけに淹れるコーヒーだったから。私専用のコーヒー。名女優、笹山凛子オリジナルコーヒー・・・・」と言って、もう一度啜ると、コーヒーの中に一滴の涙が零れ落ちた。
二人はしばらく、お互いのコーヒーを啜りながら黙ったまま時間を過ごした。
凛子が最後の一滴を飲み干した。
静かにカップソーサーの上に空のカップを置くと、横から新しい淹れたてのコーヒーを注ぎに藤村が近づき、空のカップにコーヒー注いだ。
「新聞で読んだよ・・・。女優・・・、やめるんだって?」と藤村が残ったコーヒーを自分のマグカップに注ぎながら言った。
「新聞なんかで身内の情報を集めないでよ・・・」と凛子が苦笑する。
「悪いな・・・。そう頻繁に連絡も出来なかったからさ・・・。僕も忙しくてね」と藤村が店内をグルッと見回しながら言う。
「俺も・・・。あの時に時計が止まった。けど、止まったままではいけないと思った。前に進まないといけない。前に進んでいかないと・・・、ってね。さっきのバイトの女の子。彼女も一時期、時間が止まろうとした。真司のように・・・」
「えっ?」
「まぁ・・、あの子の場合は自ら命を絶とうとしたのを、真司の作った最後の作品が彼女を救った。アイツは・・・、『これは災いを招く品物だからずっと、金庫に入れておく』と言ったけどね」と藤村は言いながら、最後にコーヒーを啜る。
「パンドラメガネ?シンちゃんの遺作が、彼女を救ったの?」と凛子が驚きながら聞いた。
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